建保六年(一二一八)、北条義時により創建された大倉薬師堂は、建長三年(一二五一)に焼失し弘長三年(一二六三)ころに復興された。覚園寺と号されたのはこのころで、本尊薬師如来像(重文)はその復興期のものと考えられているが、両脇侍像をはじめその他の造像は遅れて八代住持悦岩思咲【えつがんししょう】のときである。応永八~十八年(一四〇一~一一)に十二神将像、同二十五年に伽藍神像、同二十九年に日光月光菩薩像(重文)がいずれも仏師朝祐【ちょうゆう】により造顕されている。等身の大きさをもつ本群像は頭上に十二支獣を表し変化に富む形姿とするが、大仰な身振りなのは、朝祐作の他の像が比較的おちついた形姿なのに対して、天部形のせいかとも考えられる。
構造は頭体を前後に数列に矧ぎ各列とも数材を寄せ、さらに一部の材は頭体共木で割首するという複雑なもので、その特徴は覚園寺日光月光菩薩像にも通じており、銘に記されるとおり同一作者であることを証している。
すべての像に十二支獣の銘があり名称が確定できる。うち五体の像内銘により、応永八年に午神像、同九年から十四年にかけて子、寅、卯、辰、巳、丑の各神像、同十五年に未神像、同十六年に申神像、同十七年に酉神像、同十八年に亥神像が造立されたことがわかる。一年に一体ずつつくられたのであろう。銘に記載がなく像高も少し小さい戌神像の製作時期だけを遡らせようとする見解があるが、構造の原則が他と異ならず、また作風も大きく外れるものでないことから、一連のものと推定される。
関東地方にはこの期「朝」字を有する仏師の活躍が見られる。東京・光厳寺釈迦如来像の運朝(建長寺旧蔵、康安二年〈一三六二〉)、群馬・南光寺釈迦如来像の朝安(伝大日如来、応永十年)、鎌倉・極楽寺興正菩薩像を修理した浄朝と清朝(応永三十二年)などである。鎌倉・宝戒寺昌景惟賢像の「ちゃうけい」(応安五年〈一三七二〉)をも入れて、朝祐と同系の仏師とする見方がある。製作時期および仏師の判明する完備した十二神将の作例で、関東の基準作としての意義は大きい。