有東木の盆踊は、男性が受け持つ踊りと女性が受け持つ踊りが区別されていて、それぞれ太鼓を伴奏に、踊り手自身も歌いながら踊る。その踊りは、扇やコキリコ、ササラ、木製の小さな長刀【なぎなた】を持つものがあり、また踊りの輪の中に、飾り灯籠を頭上にかざした踊り手が繰り込んで踊ることがあるなど、多様な内容をもっている。
静岡市の有東木地区は、安倍【あべ】川の河口から三〇キロメートルほど上流の、左岸に注ぐ支流に沿って急な山坂をさかのぼった、海抜五五〇メートルほどの緩やかな傾斜地で、集落の後背地の峠を越すと山梨県に至る。この有東木の地は、稲作に適した平地はないが、清流に恵まれ、ワサビ栽培発祥の地とされ、またお茶の産地としても知られる。
この地の盆踊の始まりは明確ではないが、安倍川上流域には、同種の盆踊が伝承され、その中に、一八世紀中ごろに盆踊の太鼓を修理した記録があるところがあり、少なくとも、その頃以前からの伝承と考えられる。
有東木の盆踊は、八月十四日と十五日の両日、夕方六時三〇分ころから、地域内の東雲寺【とううんじ】の境内を会場に行われる。両日とも、まず男性の男踊りから始まり、四演目ほど踊って、次に女性の女踊りが六演目ほど続き、また男踊りが四演目ほどあって休憩になる。その後、女踊りが始まり、女踊りの最後の演目にかぶせるように、男踊りが繰り込んできて、最後に男性の「長刀踊り」で終わるという構成で、両日とも夜の一二時近くまで踊られる。
現在の踊りは、男踊りが一〇種、女踊りが一三種の合計二三種であるが、明治から大正にかけて記録された盆踊の歌詞は、合計で一〇〇種以上になり、それらの中に室町時代から江戸時代初期にかけて流行した歌謡と類似するものがある。
また、踊りは、手拍子だけで踊るものや、閉じた扇を持つもの、扇を開いて持つもの、コキリコと呼ばれる、二本の竹の棒の、それぞれ両端に紙の房を飾りにつけたものを互いに打ち合わせて踊るもの、ササラと呼ばれる刻み目を入れた木の棒と、先を細かく割った竹の棒を打ち合わせたり、すり合わせて踊るもの、小型の木製の長刀を持つ踊りなど、それぞれに決まっている。これらの持ち物は、踊り手が自作し、また使わない踊りのときは、各自が帯の後ろに差し込んでおくことになっている。踊りの隊形は、長刀踊りは、互いに向かい合った列になって踊るが、他は輪になっての踊りである。
踊りの伴奏は、ともに締太鼓で、男踊りは、太鼓(皮の直径約五二センチメートル)を、今は踊りの輪の外に台を置いて、その上に据えて打っているが、かつては、二人の男性が太鼓を支え持ち、打ち手が左右の手にバチを持って、打ちながら踊りの場を移動したとされる。女踊りの太鼓(皮の直径約三五センチメートル)は、男踊りの太鼓より一回り小型で、踊り手の一人が、左肩前に縦に太鼓を構え、右手のバチで打ちながら踊る。この盆踊では、太鼓が、歌と踊りを導く重要な役とされ、特に女踊りの太鼓の打ち手は「タイコンサマ」と呼ばれている。
歌は、踊り手が皆で歌うが、男性女性とも、それぞれ歌い出しを受け持つ熟練者がいて「ウタダシ(歌出し)サン」と呼ばれ、タイコンサマとともに「師匠さん」と総称され、この盆踊の指導者となっている。
なお男踊りでは、ウタダシサンも踊り手として、踊りの輪の中にいるが、女踊りでは、輪の外、あるいは輪の中央に立って、歌と踊りを導いている。
これらの踊りには、随時、一人の男性が、トウロウあるいはハリガサと呼ばれる、五層の天守閣を木の骨組みでかたどり、色紙を貼り、中に明かりを入れた飾り灯籠を、両手で頭上にかざして踊りの輪の中に繰り込み、その灯籠を左右に回しながら踊ることがある。これを「中【なか】踊り」と呼んでいる。
十五日の夜には、最後の「長刀踊り」の後で、灯籠を先頭に二名の男性が支えた男踊りの太鼓と打ち手が続き、さらに踊り手が行列して、皆で集落の辻まで行き、コキリコなどの持ち物につけた紙の房を取り外して焼いて、この年の盆踊が終わる。この次第を「送り出し」と呼ぶが、かつてはさらに下の沢まで行って、灯籠も燃やしたと伝えている。
この中踊りの灯籠は、中世に京都などで流行した、風流【ふりゆう】の灯籠踊の姿をうかがわせ、また盆踊の最後に、行列をして集落の境などへ行って、切り子灯籠などを燃やすのは、盆に先祖の精霊を迎えて、これを慰め、さらに他の霊とともに、これを送りだす形をうかがわせる。
このように有東木の盆踊は、中世から近世初期に流行した歌と灯籠を持った踊りなど、古風で多様な風流系統の踊りを盆踊として伝承するもので、芸能の変遷の過程を示し、また男性と女性の踊りが決まっていることやさまざまな持ち物を持って踊るなど、地域的特色を示すものとして特に重要である。