六呂瀬山古墳群は、奥越山地を貫流してきた九頭竜川が、まさに福井平野に流れ出た右岸の六呂瀬山頂に位置する。この付近の標高五〇~二〇〇メートルの丘陵上には、約一三〇基の古墳が分布しており、丸岡古墳群と総称されている。これに対し、左岸の丘陵上には、国史跡手繰ヶ城山古墳をはじめとする松岡古墳群(吉田郡松岡町所在)が分布しており、九頭竜川を挾んで両古墳群が対峙した形をとっている。
六呂瀬山古墳群は、丸岡古墳群の東南端に位置し、標高二〇〇メートルの高所にあって、前方後円墳二基と方墳二基からなる。昭和五十三年に福井県教育委員会が、昭和六十年には丸岡町教育委員会が、墳丘の範囲確認調査を実施しており、各古墳の墳形や規模が明らかにされた。本古墳群の上に立って西方をみると、九頭竜川の形成した坂井平野を挾んで、日本海が眺望でき、南に目を転ずると松岡古墳群を、また足羽川流域に福井市街や足羽山などを眺めることができる。
本古墳群は、いずれも丘陵尾屋根上に築造されているため、自然地形の制約を受けており、墳形は必ずしも整美なものであるとは言い難い。一号墳は、墳丘主軸がほぼ南北にそろう前方後円墳で、後円部を北に、前方部を南におく。全長は一四〇メートルで、北陸地方最大の規模を有する。後円部の径は七八メートル・高さは一三メートル、前方部の長さは五二メートル・幅は五八メートル・高さは一一メートルを測る。墳丘は二段築成で、葺石と埴輪(これまでに円筒と家形が確認されている)を有している。後円部東部に、東西二七メートル・南北一五メートル・高さ四・二メートルの半円形の張出がある。後円部頂上には、盗掘坑があって、この周辺から凝灰岩製の石棺破片が採集されているので、内部主体は石棺であろうと推定されている。一号墳の築造年代は、墳形・埴輪などからみて、四世紀末から五世紀初頭にかけての頃と考えられている。なお、後円部張出部の東方に、掘割を隔てて、東西一六メートル・南北一四メートル・高さ二・二メートルの、不整形な方形の二号墳がある。一号墳の陪塚と考えられるが、葺石と埴輪はない。
三号墳は、墳丘主軸をほぼ東西方向にそろえた前方後円墳で、後円部を西に、前方部を東におく。前方部の上面前端は、一号墳の後円部西裾にほとんど接しており、前方部前面がないという特異な形をしている。全長は、八五メートルで、後円部の径は四八メートル・高さは一一メートル、前方部の長さは三七メートル・幅は四八メートル・高さは九メートルを測る。墳丘は二段築成で、葺石と埴輪(これまで円筒の他、家形、短甲形、衣蓋形、盾形などの形象埴輪が採集されている)を有している。後円部北裾に、北に向かって東西一一メートル・南北一一メートル・高さ一・一メートルの張出がある。墳形や埴輪からみて、三号墳の築造年代は、一号墳よりやや遅れる五世紀前葉と考えられている。また、一号墳と同様に、張出部の北方に、浅い掘割を隔てて東西一三メートル・南北一六メートル・高さ二・七メートルの規模の不整形な方形の四号墳が存在している。
六呂瀬山古墳群は、その立地・規模・内容などから、対岸に位置する手繰ヶ城山古墳とともに、四世紀後葉から五世紀前葉にかけての福井平野における、広域首長墓であったとみられる。これらの古墳は、北陸地方の古墳時代の解明に欠くことのできぬものであり、古代における越国の形成とその発展を知る上で、極めて貴重な資料となるものと考えられる。よってこれらを史跡に指定して、その保存を図ろうとするものである。