高取城跡 たかとりじょうあと

史跡 城跡

  • 奈良県
  • 高市郡高取町
  • 指定年月日:19530331
    管理団体名:奈良県(昭28・8・28)
  • 史跡名勝天然記念物

中世越智氏の據地として重きをなしたところで、盖しその詰城であったと思はれる。天正十三年豊臣秀長大和を領するや、越智氏はこれに属し、その後を承けて脇坂氏、本多氏相ついでこれを領したが、寛永十七年に至り、植村家政ここに封ぜられ、■来子孫相承けて明治維新に至った。現在の城郭の構築につき、その沿革は詳でないが、盖し近世初頭に営まれ、植村氏の時代に補修されたものであらう。
城は大和平野の南隅に聳える高取山上に営まれ、西方は金剛、葛城の連峯に、南方は吉野の群山に相対し、俯瞰すれば大和平野と吉野川沿岸を脚下に望み、極めて景勝の位置を占めている。指定の地域は城郭の主要部で、頂上に向って漸次高さを■増してゆく山頂部の地形を巧に利して層々郭を連ねて構成され、凡そ北部の前衛部と南部の枢要部とに大別し得られよう。前衛部は谷と堀とによって大手方面の城地を■し、蛇行する通路の左右には侍屋敷相連り、門櫓は要所を扼して、枢要部を守る枢要部は高い石垣をめぐらす本丸を最奥の頂上部に置き、二の丸、三の丸これに連なり、更に侍屋敷を配して守りを堅くし、壷阪、吉野方面に搦手口を設ける。今天守閣を始め建物はすべて存しないが、天守台、門、櫓、虎口等の遺構及び各郭の形態は全面にわたる堅固な石垣と相俟って旧規模を殆どその儘遺しているのは貴重であり、且つ嶮阻な中世山城の位置を踏■した近世城郭として夙に著名であって、学術上価値ある遺跡である。

高取城跡

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