上淀廃寺跡 かみよどはいじあと

史跡 社寺跡又は旧境内

  • 鳥取県
  • 米子市淀江町
  • 指定年月日:19960329
    管理団体名:
  • 史跡名勝天然記念物

上淀廃寺跡は鳥取県西部の米子平野東端に位置する七世紀後半に造営された寺院の跡であり、大山北西麓の日本海にのぞむ丘陵の南側斜面に立地する。この周辺には古墳時代中期から後期の著名な古墳群である向山古墳群、本州では唯一の石馬を伴うと伝えられる石馬谷古墳でなどがある。現在、上淀廃寺の寺域は水田となっているが、この土地は、古くから古瓦が出土することから、古代寺院の存在が推定されていた。鳥取県教育委員会と淀江町教育委員会は平成二年から六年までの間、寺院の実態解明を目的とした発掘調査を実施し、平成三年の調査では彩色壁画片が出土して大きな話題をよんだ。
 遺構は水田の造成などによって一部削平されていたが、伽藍中枢部とその周辺についての状況を明らかにすることができた。伽藍配置は、金堂の東側に三基の塔を南北に配置するという、他に類例のない特異なものである。金堂と塔は斜面を整地して建てられ、その周辺に関連施設が配置されている。
 金堂の基壇は下成基壇の上に上成基壇を置く二重基壇の構造をとっている。下成基壇の規模は東西一四・六メートル、南北一二・四メートルで、高さ三〇センチメートルほどの側面は人頭大の自然石で外装し、上成基壇は下成基壇の内側約三〇センチメートルの位置で立ち上がり、瓦積みの外装を施している。金堂の建物の規模については、基壇上面が削平されていて、礎石の位置を確認することができないため明らかではない。
 南北に並ぶ三基の塔のうち北の塔は、据え付けられた状態で心礎が検出されたが、基壇は確認できず、完成しなかった可能性が高い。ただ三基の塔の心礎は等間隔に配置されており、当初南北一直線に三基の塔を並立させる計画であったと考えられる。中央と南の塔の基壇は残っており、いずれも金堂と同じ二重基壇で、東西九・九メートル、南北一〇・二メートルである。基壇上には礎石抜き取り穴や礎石の根石を残しており、塔は初層が三間×三間の建物であったことがわかる。
 堂塔を囲む施設は西側では削平されて不明であるが、東側で二本の溝が確認されていることから、ここに築地を推定することができる。南側には中門跡と推定される石列と、これに取り付き東西方向にのびる回廊か築地の跡と推定される石列がある。これらの遺構から伽監中枢部は約五五メートル四方の規模と推定される。金堂と中央および南の塔付近には瓦類や壁体、塑像、土器などの混じる焼土層があり、十世紀代に火災により消失したことが知られる。
 伽監中枢部の北側は一段高くなっており、鐘桜あるいは経蔵かと推定される梁間三間、桁行三間の掘立柱建物と、僧房ないし食堂と推定される庇をもつ大型の掘立柱建物がある。その北側に、寺院を区画すると考えられる東西方向の溝があり、これによって、寺域の規模は南北約九〇メートルであったと推定される。この東西溝の北側はさらに高くなっており、寺院より古い飛鳥時代の大型の掘立柱建物の跡が数棟存在する。これらの建物は、眼下に望む向山古墳群とほぼ同時期に建てられたものであり、その被葬者の氏族がこの場所に居館などの施設を造営し、後にこの寺院を建立したとの推測もできる。
 出土遺物には七世紀後半から平安時代に及ぶ瓦類、須恵器、土師器などの土器類のほかに、多くの壁画壁体、塑像が出土している。瓦類には上淀廃寺式と称される単弁十二葉蓮華文軒丸瓦をはじめとする四種の軒丸瓦、重弧文など五種の軒平瓦、鴟尾などがある。丸瓦には「癸未年」と紀年名を篦書きしたものがあり注目される。「癸未年」は瓦の年代観から天武十二年(六八三)と考えられ、寺院の創建年代を示唆する。壁面は細片化し表面は火熱を受けているが、神将・菩薩などが鮮明に描かれており、自然景を背景にした如来や脇侍菩薩を、多くの菩薩や神将が取り囲む構図をもっと推測される。塑像片には像の形状の明らかなものが約四〇点あり、丈六如来像、菩薩像、神将像の一部が確認される。これらは金堂の三尊仏とその周囲の四天王と考えられる。
 この寺は郡司層などの在地の有力氏族によって建立されたと考えられるが、南北に三基の塔を並立させるという類例のない特異な伽監配置が計画されたことに加え、現在明らかになっているかぎりでは法隆寺以外に例のない彩色壁画や、出土例が稀な塑像片が出土したという点において、大きな意義をもっている。壁画で荘厳された地方の白鳳寺院の具体的なあり方を知る上で、この遺跡の歴史的意義はきわめて大きい。よって史跡に指定し、その保存を図ろうとするものである。

上淀廃寺跡

ページトップへ