惟康親王願文〈文永十一年十一月日/〉 これやすしんのうがんもん

歴史資料/書跡・典籍/古文書 その他 / 鎌倉

  • 鎌倉
  • 1巻
  • 重文指定年月日:20050609
    国宝指定年月日:
    登録年月日:
  • 金地院
  • 国宝・重要文化財(美術品)

 本巻は、文永十一年(一二七四)十一月、当時鎌倉幕府将軍であった惟康親王(一二六四~一三二六)一一歳が、父で前将軍の宗尊【むねたか】親王(一二四二~七四)の百か日の忌辰を迎えて、作善供養、法要を勤修したときの願文である。
 惟康親王は、宗尊親王の第一皇子として、文永元年に鎌倉で誕生した。宗尊親王は、当時鎌倉幕府の実権を掌握していた北条氏が念願した初めての皇族将軍であったが、文永三年には将軍職を廃位となり鎌倉を追われた。惟康は、父の廃位により同年三歳で将軍宣下を受け、第七代将軍となった。
 体裁は巻子装。料紙には金銀の切箔を散らし、霞を表した上に、岱赭【たいしゃ】、緑青【ろくしょう】、胡粉【ごふん】、朱などにて、秋草などの下絵を描いている。法会の願文は意匠を凝らすのが例であり、本巻も将軍の願文にふさわしく華麗な装飾料紙が用いられている。本文は一紙一三行から一七行、一行一四字前後に暢達した筆致で書写されている。「敬白」と書き出し、次に「奉圖繪釋迦阿弥陀等如来像一鋪」の図写以下、法華経、無量義経、観普賢経、阿弥陀経、般若心経等各五部書写の作善の事項を列挙し、「右尊像妙典甄録如斯」以下に願意を述べ、前大僧正法印大和尚位を導師として、六口の僧侶が同音開題し、厳重なる法要を行ったことを記し、書止を「敬白」と結んでいる。次行に「文永十一年十一月 日弟子征夷大将軍前近衛権中将従二位源朝臣 敬白」と年紀と願主名を記している。
 本文は対句を多用し、四六駢儷体【しろくべんれいたい】風に表現されている。神武天皇を祖とする考え方や、源頼朝(一一四七~九九)が征夷大将軍に任命された建久三年(一一九二)を意識している点など、当時の歴史認識をうかがい知る上において注目される内容を含んでいる。
 本巻の清書者は不詳であるが、その書風は、鎌倉時代初頭に盛行した後京極様【ごきょうごくよう】に属するもので、字形はやや縦長で力強い筆致で書かれている。藤原良経【よしつね】(一一六九~一二〇六)が大成した書風の特徴を有しており、その代表的なものに『佐竹本三十六歌仙絵』や『紫式部日記絵巻』がある。本巻はこれら後京極様書風の下限を示すものとして、書道史上にも注目される。
 本願文は、鎌倉幕府の史書である『吾妻鏡』にも記載のない時期の史料として、また類例稀な鎌倉時代中期の装飾料紙を用いた武家の供養願文として貴重である。

惟康親王願文〈文永十一年十一月日/〉

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