福岡市の西部、博多湾西側には今宿平野と呼ばれる小平野が所在する。東西3km、南北1.5kmに及ぶ平野部とその背後にある丘陵部には、11基の前方後円墳と350基以上の群集墳が良好に残存し、ひとつの古墳群を形成している。
これまでに指定された前方後円墳は3基ある。4世紀後半の鋤崎古墳はこの古墳群では東端に位置し、全長62mを測る。主体部に採用されている横穴式石室は列島における出現期のもので、長方板革綴短甲をはじめとする武器類や青銅鏡などの副葬品は、前期から中期への過渡的な状況を示す貴重な例である。5世紀前半の丸隈山古墳は全長84.6mを測り、墳丘規模はこの古墳群最大である。主体部である横穴式石室は鋤崎古墳に次ぐ型式のものである。6世紀前半の大塚古墳は全長64mで、盾形の二重の周濠を含めた規模は約100mに達する。主体部は未調査であるが、周濠からは多量の円筒埴輪や形象埴輪の出土を確認している。いずれも九州北部地域の古墳時代の動向を知る上で重要であることから史跡に指定された。福岡市教育委員会では昭和55年以降、周辺の前方後円墳について確認調査等を継続的に実施してきており、ほぼ全容を明らかにした。
今回追加指定するのは、そのうちの前方後円墳4基である。山ノ鼻一号墳は4世紀半ばで、この古墳群の中では最も古く位置付けられ、全長は37mを測る。若八幡宮古墳は古墳群の中央に位置する4世紀後半の全長47mを測る古墳である。木棺直葬の主体部からは三角縁神獣鏡や方形板革綴短甲等が出土した。兜塚古墳は古墳群の西側に所在し、築造時期は5世紀後半で、前方部の一部が損壊を受けているが全長53m以上を測る。横穴式石室からは馬具や玉類、鋲留短甲と考えられる鉄片などが出土している。飯氏二塚古墳は古墳群の西端に位置する。時期は5世紀末から6世紀初頭で、全長は48mを測り、横穴式石室からは金銅製馬具や玉類が出土している。そして、6世紀前半以降は、前方後円墳は築かれるものの20から40m程度の小型のものとなり、立地も丘陵上に移動することから、この時期に首長の在り方が変化したことを示している。
今宿平野では、4世紀半ばから6世紀前半までの約150年間、消失したものを含めると13基の前方後円墳が築造された。同一地域の中で古墳時代を通して前方後円墳が継起的に築造される例は全国的にも珍しく、その上、初期の横穴式石室をもつものや甲冑を保有するものがある。この地域が大陸文化を受容する門戸に位置していることを考えると、これらの古墳は九州北部地域における古墳時代の政治動向だけでなく、大陸や畿内の中央政権との関わりを知る上でも重要である。よって、既指定の3基の前方後円墳を統合するとともに、新たに4基の前方後円墳を追加指定し、「今宿古墳群」と名称を変更し、一体的に保護を図ろうとするものである。