熊本藩主細川家墓所 くまもとはんしゅほそかわけぼしょ

史跡

  • 熊本県
  • 熊本市黒髪・横手
  • 指定年月日:19951128
    管理団体名:熊本市(平8・7・17)
  • 史跡名勝天然記念物

細川氏は寛永九年(一六三二)加藤氏のあとを承けて熊本城に入り、肥後の過半の領主となった。この細川氏の墓所は二か所にあり、一か所は横手(上北岡)の妙解寺跡に、一か所は黒髪(立田)の泰勝寺跡にある。
 妙解寺は細川[[光尚]みつなお]が、父細川忠利の追善のため、寛永十八年(一六四一)に建立した臨済宗の寺で、寺号は忠利の戒名妙解院によるが、現在は山門・塀・石橋など建物の一部を残すのみで廃寺となっている。墓域は寺の背後の山にあり、五つの区画からなる。石段を昇った正面には忠利、同夫人、光尚の霊廟があり、建物内に五輪塔墓がある。この三棟を囲むように、向かって右に忠利の殉死者の墓が一五基、左に光尚殉死者の墓が一五基あるが、前者の中に阿部弥市右衛門の墓があり、主君の許しを得ず追腹を切ったという彼とその一族の悲劇を画いた森鴎外の小説「阿部一族」で知られる。
 この区画の南西に綱利・[[宣紀]のぶのり]・宗孝・重賢の墓域があり、その北に治年、[[斉護]なりもり]、同夫人の墓、さらにその南西に治年夫人、[[斉茲]なりしげ]子煕吉の墓域がある。また東の墓域には藩主の子女の墓が妙解寺歴代住職の墓に並んでいる。
 次に泰勝寺は慶長十六年(一六一一)細川忠興が父幽斎(藤孝)の追善のため小倉に建立したもので、いったん[[八代]やつしろ]に移されたのち寛永十四年(一六三七)、現在地に移された。寺号は幽斎の戒名泰勝院によるが、五祠堂・山門・塀を除いて明治維新後廃寺になっている。墓域は三区画からなり、寺の背後に幽斎、同夫人、忠興、同夫人(ガラシャ)の霊廟があり、中に五輪塔がある。
 その東の区画に斉茲とその子、また[[斉樹]なりたつ]の墓域があり、さらにその東の区画に、明治維新後に造られた[[韶邦]よしくに]、護久らの墓域がある。
 この二か所の細川家墓所は、五四万石の領主であった大名にふさわしく大規模で、かつ霊廟建物が多数残るようにその保存が良好である。また殉死者の墓があること等、封建時代の主従制のあり方をもよく示しており、わが国の大名家墓所の代表的なものといえる。よってこれらを史跡に指定し保存を図るものである。

熊本藩主細川家墓所 くまもとはんしゅほそかわけぼしょ

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