建武三年(一三三六)八月十七日に足利尊氏が自筆をもって清水寺へ奉納した願文で、楮紙に全文十一行の仮名交じり文で書かれている。その内容は、尊氏に仏の加護を賜わり、後生の安穏を願うとともに、今生の果報を弟直義に与えられんことを祈願したものである。
発願の契機は明らかでないが、尊氏はこの年の五月二十六日に、湊川合戦で楠木正成を敗死させ、六月十四日に光厳上皇、豊仁親王を奉じて入京し、八月十五日には豊仁親王の践祚【せんそ】(光明天皇)をみており、このような時期に尊氏がこの願文を納めたことは注目される。当時政治の中枢にあった尊氏が権力に対してあまり執着を示さず、前年の十二月にも鎌倉の浄光明寺に蟄居して、出家しようとしたことは『梅松論』などに見えている。室町幕府草創期の政治が尊氏と直義の両頭政治であったことはよく知られているが、この願文の作成された建武三年後半を境として、貞和末年に至る間、恩賞給付の最終的承認権以外の一切の権限を、直義が行使したこともまた事実である。
この願文は、尊氏が直義に政務の実権を移譲しようとした心情を伝える自筆文書として重要である。