鷹尾神社大宮司家文書(四百三十三通) たかおじんじゃだいぐうじけもんじょ(よんひゃくさんじゅうさんつう)

歴史資料/書跡・典籍/古文書 その他 / 安土・桃山 江戸 室町 鎌倉 南北朝

  • 鎌倉~江戸
  • 18巻、130冊、242通、7綴、1枚、1隻
  • 重文指定年月日:19990607
    国宝指定年月日:
    登録年月日:
  • 国宝・重要文化財(美術品)

 鷹尾神社は、福岡県山門郡大和町鷹尾にある旧県社で、中世には筑後国瀬高下庄の鎮守、同国一宮高良大社の別宮であった。本文書は、同社および大宮司職を世襲した鷹尾家に伝来したもので、承元年中(一二〇七-一〇年)ころの後鳥羽院庁下文案以下、昭和に及ぶ計三四一通を存する。うち一二一通は中世文書で、そのほとんどが鎌倉時代にさかのぼる。
 瀬高下庄は、大治六年(一一三一)に瀬高庄が上・下両庄に分かれて成立した庄園で、平安時代後期に、藤原道長の曾孫俊忠より伝領した徳大寺左大臣家が、待賢門院に寄進し、後にその御願寺である円勝寺領となった。鎌倉時代前期には、下庄内鷹尾郷の地の開発が進み、鷹尾別符が成立したと考えられる。鷹尾神社では、鎌倉時代の初めに紀元真が大宮司職に補任されて以来、紀氏(鷹尾家)がこれを世襲した。近世に入ると、柳河藩主立花家によって社殿の修理等が行われている。文政九年(一八二六)、立花家の祖廟として創建された三柱神社の神官を命じられた鷹尾家は、後に三柱神社に転居し、戦前まで鷹尾神社の社務を兼帯した。
 こうした鷹尾神社の歴史を反映して、文書中には庄園支配や社務職に関わる文書が多くみられる。特に平安時代後期以来の鷹尾神社の祭礼、造営に関する文書がまとまっており、在地の鎮守社における舞楽などの実態が明らかになることが大きな特徴である。
 例えば、鷹尾神社祭礼関係文書案(A本)は、鎌倉時代後期の案文ではあるが、当時の祭礼などの様相を詳細に伝えた史料として貴重である。このうち建暦二年(一二一二)十一月日付遷宮諸役次第注進状案は、神事芸能における地方田楽の広まりを示している。また遷宮寿舞歌覚は、今様の伝播など中世歌謡史を考えるうえで興味深い。さらに鷹尾神社祭礼記録案は、瀬高庄の商人らと高良社神人との乱闘で、獅子頭や伎楽面が打ち破られた事件などを記している。
 弘長三年(一二六三)九月六日付鷹尾神社神輿并神宝直法等注進状は、費用明細とともに神事渡物の規模を伝えている。弘安から正応年間(一二七八-九二年)にかけては、大宮司と宮別当多米氏が相論を続けた際の訴陳状がまとまっており、楽所人、舞人らの活動などが知られて注目される。
 近世・近代文書の中には、(年未詳)三月十六日付神楽用具借用覚など、中世以来行われていた鷹尾神社の祭礼に関わる文書のほか、近世の神社支配のあり方を考えるうえで重要な文書が少なくない。また、すでに原本が失われている中世文書の内容を伝えた写本も含まれている。
 本文書は、平安時代以来の在地の神社祭礼などが具体的に明らかになる神社文書として希有な例であり、中世の神祇信仰や芸能を知るうえで価値が高い。

鷹尾神社大宮司家文書(四百三十三通)

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