S52-06-009[[斐太遺跡]ひだいせき].txt: 妙高山に発した山なみは[[頸城]くびき]平野の西を限り、新井市付近では比高40メートル前後の低い丘陵となっている。斐太遺跡はこうした丘陵のやや平たい、狭い尾根部に営まれた弥生時代後期あるいは古墳時代初期の集落跡であり、住居跡群やこれをとりまく空濠が埋まりきらず凹みをのこしていることから早くから特に注目をひき、昭和30年〜33年にわたり東京大学が調査し、詳細を明らかにした遺跡である。
遺跡は、丘陵上に3地区に分かれて存在する。北側に位置する百両山は、丘陵頂部に47の凹みが残されている。その大部分は竪穴住居跡であろうとされており、その直径は、大は8〜10メートル、小は2メートル前後、深さは0.4〜0.8メートルほどのものである。その大部分は比高42〜43メートルの間に集中しており、3か所に特に群在する傾向がみられる。
空濠はこうした竪穴住居群の東・西両側にあり、南北に長く掘られている。東側は、比高30メートルから32メートル間に100メートルつづき、西側は、38メートルから40メートルの間に120メートルつづいている。したがって丘陵の頂部に竪穴住居を構え、やや低い丘陵傾斜面のはじまる縁に空濠を設けたものである。
この百両山から谷を隔てて南に上ノ平地区があり、尾根上に現在13の凹みがのこされているが、昭和5年以前に調査した斎藤秀平は、この地区に30の凹みをかぞえている。この丘陵の尾根の東西両側に浅くのこされた空濠が見られ、その南側では尾根を切ってこの両側の濠をつなぎ、一つの地区を形つくっている。この上ノ平地区に南接して、同じ丘陵の尾根上に、矢代山地区がある。この地区には現在11の凹みがみられるが、斎藤秀平は19の凹みをかぞえている。この地区でも、やはり尾根の平坦部から傾斜面に移る縁辺に空濠が掘られており、やはり同様な構造をもっていたものと考えられている。
本遺跡は、弥生時代後期あるいは古墳時代初期に営まれた集落が埋まり切らず浅い凹みとなって住居跡、空濠跡をのこしている点で注目されるだけでなく、この時期の集落の構造などを具体的に窺う上で極めて重要な遺跡といえるであろう。
弥生時代中期中葉から古墳時代初頭にかけての新潟県南部に所在した集落跡群である。既指定の斐太遺跡は弥生時代後期後半に始まる丘陵上の大規模環濠集落である。吹上遺跡は弥生時代中期中葉に始まる大規模な玉作りを行った集落跡、釜蓋遺跡は弥生時代終末期に始まる当地域初となる低地の大規模環濠集落である。この3遺跡は、いずれも拠点的な集落で、互いに密接に関わりながら展開した。斐太遺跡に、吹上遺跡・釜蓋遺跡を追加指定し名称変更を行い、一体の遺跡として保存し活用を図る。