高屋敷館遺跡は,濠と土塁を巡らした平安時代後期のいわゆる環濠集落である。この遺跡は,発掘調査前は中世の城館跡と考えられていたが、青森県埋蔵文化財調査センターが平成6年から7年に、建設省の国道バイパス建設に伴う発掘調査を行った結果、古代のものと判明し、その性格をめぐって大きな議論をよんだ。遺跡はバイパスの路線を変更することによって全体の保存が図られた。
遺跡は東に平野を臨む台地の縁辺に立地し,南北約100m、東西約80mの規模をもつ。西側には、幅約6m,深さ約3mの濠とその外側に幅約2m,現存高約1mの土塁を巡らし、集落を外部から遮断している。濠の西側には出入口と考えられる土塁が途切れた部分があり、この他南西部にも木の橋が濠に架けられていた。濠の内部には大小の竪穴住居が重複しながら密集し、その数は86棟が確認されており、それ以外にもかなり多数の存在が推定されることから、多くの人々が長期にわたり生活していたことが知られる。このうち2棟の竪穴住居からは,鉄滓が出土しており鍛冶工房と考えられる。出土している遺物は土器の他、種々の鉄製品・木製品が豊富にある。遺跡の時期は,出土土器等により10世紀後半頃から12世紀前半頃と考えられる。なお、遺跡北側には高屋敷館遺跡に先行する時期の、竪穴と掘立柱建物が連結する建物にU字形の溝がめぐる遺構と、墓と推定される円形周溝遺構があり、高屋敷館遺跡成立以前の状況が具体的に知られる。
集落を濠と土塁で囲むという構造は、防御を意図したものとも考えられる。同じ時期に日常生活を営むのに不便な高い山上に立地するいわゆる高地性集落も知られており、合わせて防御性集落とも称される。古代の環濠集落・高地性集落は、現在のところ、秋田・岩手両県の北部から青森県に及ぶ東北地方北部、さらには北海道南部に分布し、時期はいずれも平安時代後期の10世紀から12世紀を中心としている。
東北北部以北の地域は律令国家の直接的な支配が及ばない地域であった。この地域に環濠集落・高地性集落が成立することは、この地域が律令国家の支配領域とは異なった社会情勢にあったことを示唆する。記録によれば、岩手県・秋田県の地域においては、11世紀後半に前九年、後三年の役があったことが知られているが、これらの遺跡の存在から、それ以前から、蝦夷の集団相互の抗争などがあったことも想定される。本遺跡はこの地域の古代の環濠集落の中でも、とくに規模が大きく、出土遺物も豊富で遺跡の遺存状況も良好であり、重要な歴史的意義を有している。よって、史跡に指定し保護を図ろうとするものである。