融通念仏縁起絵は、宗祖である良忍上人(一〇七二-一一三二)が融通念仏の功徳についての啓示を受け、布教につとめた有様、融通念仏の霊験のいくつかを絵画化したものである。諸本の奥書によって正和三年(一三一四)に二巻本として成立したことがわかるが、鎌倉期までさかのぼるものはまれで、米国クリーブランド美術館とシカゴ美術館に分蔵されている絵巻が唯一、知られているに過ぎなかった。国内に存在する既指定品はいずれも南北朝末から室町期にかけてのもので、一本は大阪大念仏寺の明徳二年(一三九一)良鎮発願にかかる板本、他はこれにもとづいた彩色本の清凉寺本および禅林寺本である。これに対して本図は他に例をみない掛幅形式で、しかも二巻本の絵巻にもとづいたものならば二幅になるところを、絵巻の上下巻から六場面を抽出して一幅に仕立てられているところから、二巻本とは独立した性格をもつものとして注目される。
図様は中央にひときわ大きく、諸神が名帳を広げる毘沙門天を囲んで念仏讃嘆する場面が描かれる。絵巻では上巻第六段に相当するが、小槌を手に俵に腰かける大黒天の姿や、荼吉尼天、聖天は他に例をみないものである。日本の神祇を人間の姿に描くのも珍しい。上辺の阿弥陀来迎の場面は上巻第八段に相当し、良忍が入寂するところである。聖衆の数は十七尊、阿弥陀来如は半跏の姿勢で来迎印を結ぶ。左上は上巻第五段にあたり、鞍馬寺にて通夜念仏する良忍が毘沙門天より融通念仏の名帳を授けられるところである。反対側の下辺は上辺の阿弥陀来迎図と対照的に閻魔庁より蘇生する北白河の下僧の妻の話が描かれている。この一段だけは下巻から採用されている。その上の向かって右半は良忍のもとに阿弥陀如来が来迎して融通念仏の教えを示すところで、左半が、良忍のもとに青衣の僧に身を変えた毘沙門天が訪れ、念仏名帳に加名するところである。それぞれ上巻の第二段と四段に相当する。制作年代は鎌倉時代最末期と思われるが南北朝期に入る可能性もある。