時宗【じしゆう】の七条道場として知られ、また、慶派七条仏所との深い関係が近時指摘されている金光寺【こんこうじ】に伝来し、明治四十一年、同寺廃絶に伴って長楽寺に移された等身の祖師像七躯である。応永二十七年(一四二〇)慶派仏師康秀【こうしゆう】によって作られたことがわかる一遍上人【いつぺんしようにん】の遊行像【ゆぎようぞう】一躯を除いては、像主や制作時期、作者を明らかにしないが、内、坐像二躯は鎌倉後期の堅実な作風によって個性的な容姿を巧みに表現している点、特に注目に値し、残る坐像三躯と倚像一躯は、その様風を襲う南北朝期の作と見られる。いずれも檜材の寄木造で玉眼を嵌入し、現状は漆下地を露している。