本図の制作事情は、画絹下部の別紙をもって継がれた部分の墨書によって明らかである。墨書は正和元年(一三一二)九月に関白冬平(一二七五-一三二七)が記したもので、それが自筆であることは、宮内庁書陵部所蔵の鷹司冬平自筆の「応製百首和歌文保百首」一巻の自署と、署名の書体が一致するところから認めることができる。
その内容は冬平が先年に夢みた、春日明神が束帯を着け、車に乗って鷹司亭北面の庭に影向し、冬平に銀につつまれた書を授けようとした光景を絵所の高階隆兼に描かせた、というものである。高階隆兼は花園、後醍醐両帝在位中に絵所預をつとめた絵師で、宮内庁の「春日験記絵」の筆者として名高い。本図と「春日験記絵」の画風は近似しており、墨書の内容は信じられよう。
図様を説明すると、青色の濃い霞の中、秋草の茂る湿った庭に一輌の檳榔毛の車が置かれ、戸口に束帯姿の春日明神が姿をのぞかせるが、顔は霞に覆われてみえない。牛車は美麗で、紫もしくは蘇芳色をした下簾には金銀泥で牡丹文が散らされ、榻も他に例をみないほど美しく飾られている。
画面上部には春日の本地仏五体が描かれる。右から釈迦、薬師、地蔵、十一面、観音がならぶが、若宮は通例では文殊菩薩で、聖観音とする例は比較的少ない。指定品の範囲では宝山寺本をその例としてあげることができる。冬平は春日本地仏については「夢想に非ずといえども所存あるにより書き加え奉るのみ。」と記すだけで、特にこの図像を選んだ理由については触れてはいない。
こうした影向図は鎌倉時代に特有のものであるが、本図の場合は、前年以来の春日大社の怪異、触穢につづく。正和元年(一三一二)八月末の春日神木入洛が一つの契機となって制作されたものと考えられる。