柞原八幡宮文書(二百十六通) ゆすはらはちまんぐうもんじょ

歴史資料/書跡・典籍/古文書 その他 / 平安

  • 平安
  • 17巻
  • 重文指定年月日:19910621
    国宝指定年月日:
    登録年月日:
  • 柞原八幡宮
  • 国宝・重要文化財(美術品)

 柞原八幡宮は古くは八幡由原【ゆはら】宮、賀来【かく】社と称し、代々宮師僧【みやじそう】によってその支配が行われ、豊後国一宮として国衙【こくが】、守護の崇敬をうけて、弘安八年(一二八五)豊後国図田帳には神領二四六町を数えた。南北朝時代以降は、守護大友氏が同社の神事、祭礼や所領に深く関与していた経過を伝えている。
 本文書の内容は、かかる柞原八幡宮の歴史を反映し多岐にわたるが、とくに康保二年(九六五)三月三日八幡由原宮師僧仙照辞以下、平安時代の文書が二七通を数える点は注目される。うち康保二年より天喜元年(一〇五三)に至る宮師僧解八通は、いずれも同社季供料田一町に対する臨時の加徴等の免除を申請した文書で、うち七通には袖に税所、田所などの国衙在庁による勘申の内容を注記した丹勘がみえ、奥に国司免判が加えられている。また保延五年(一一四六)以降の文書は大般若経田、法華経田や塩浜田等の寄進や免除に係わるもので、嘉応三年(一一七九)三月定清解は「當國一宮」の初見文書である。これら平安時代の文書は、十世紀から十二世紀における豊後国衙体制の変遷とその周辺をうかがう文書として、国衙行政機構研究上に重要である。
 鎌倉時代以降の文書は、中世一宮の神事、祭礼、所領支配や国衙、守護との関係を示すものがまとまっており、嘉元三年(一三〇五)二月由原宮年中神事次第案等は、国衙沙汰役として行われた同社年中行事の実態などを明らかにしている。また社領に対する地頭の押領を示す文書としては、賀来庄地頭惟綱と同社預所大宮司頼妙との相論を伝える嘉禄二年(一二二六)八月十八日関東下知状案等がみえる。元亨四年(一三二四)正月賀来社神人名帳案は鎮西における本神人名帳の遺例として珍しい。このほか、正平十三年(一三五八)十一月二十一日大友氏時願文以下、大友氏歴代の願文寄進状類は同社に対する大友氏の格別の崇敬を伝えるが、なかでも建徳三年(一三七二)三月八日大友氏継願文は、氏時から弟親世への家督譲与に対抗して氏継が南朝方への旗幟を鮮明にした願文として興味深い。以上、本文書は十世紀から十六世紀にわたる豊後一宮の具体的変遷と国衙・守護との歴史的な関係を明らかにして注目される。

柞原八幡宮文書(二百十六通)

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