元寇防塁 げんこうぼうるい

史跡

  • 福岡県
  • 福岡市西区・早良区・中央区・東区
  • 指定年月日:19310330
    管理団体名:福岡市(昭6・8・4)
  • 史跡名勝天然記念物

文永十一年蒙古襲来ノ後防備ノ爲博多湾沿岸一帶ニ亘リ築カレタル築地ニシテ處ニヨリ規模一樣ナラズ幅約十尺高サ七八尺ニ及ベリ
S55-05-031元寇防塁.txt: 今津地区の毘沙門山と柑子岳の間約3.9キロメートルを結ぶように構築された防塁(現存の長さ約2.7キロメートル)の大部分はすでに史跡に指定されているが、今回、この両山間のうち、毘沙門山寄りの脱落箇所長さ約490メートルの防塁とそれに接する海側及び内陸側の若干の部分を追加指定する。
S61-5-57元寇防塁.TXT: 昭和6年、史跡に指定された元寇防塁の指定地は、福岡市内に点在している。昭和56年、今宿地区の防塁に若干の地を追加して保存を図ったが、各地区とも、町名・地番の変更や太平洋戦争前後と思われる管理・監視の不十分等により、史跡地域に多くの不明な点が生じている。このため、現況に即して指定地を再編成し、残存する遺跡の保存の万全を期そうとするものである。

令和3年 追加指定
 元寇防塁は文永11年(1274)の蒙古襲来の後、鎌倉幕府が建治2年(1276)以降、博多湾一帯にわたって、九州9か国に命じて所領の広さに応じて長さを割り当てて構築させた石積み遺構である。博多湾岸の砂丘上にあり、東は香椎から西は今津まで東西約20kmに及ぶ。史料には石築地と現れる。『蒙古襲来絵詞』に描かれているように、弘安4年(1281)の弘安の役では防塁が機能した。弘安の役後にも鎌倉幕府は石築地の補修を九州各国に命じ、1340年代頃までその補修記録が残る。市域拡大に伴う急速な都市化により遺跡荒廃の危険性が増したことから昭和6年に史跡指定され、昭和56年に今津地区で、令和2年に箱崎地区で追加指定がなされた。現在の指定の地域は今津、今宿、生の松原、西新、箱崎の5地区10か所に分かれている。場所により構造は異なるが、今津地区の防塁は高さ3m、下幅3m上幅2mの台形状に積み上げている。箱崎地区の北にある多々良川の河口には文献によれば、乱杭・切立を打ち込んで、船の侵入を防いだ。
今回追加指定を行おうとするのは箱崎地区の元寇防塁である。箱崎地区の既指定地の最も東側の防塁から南に約100mの地点で、令和2年の追加指定地の約60m北に位置する。九州大学箱崎キャンパスの移転に伴う令和2年度の九州大学埋蔵文化財調査室による発掘調査で、これまでの調査に引き続き、海側に一段の南北石列が残存し背面は砂の構造の防塁と、陸側に幅5.9m前後の溝が検出されている。防塁はこのまま北進し、東に折れて最も東側の防塁に接続すると推定される。以上のように、既指定地の防塁と一体にして保存すべきものである。
よって、史跡に追加指定し、保護の万全を図るものである。

元寇防塁

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