水戸德川家墓所 みととくがわけぼしょ

史跡 / 江戸

  • 茨城県
  • 近世
  • 常陸太田市
  • 指定年月日:20070726
    管理団体名:公益財団法人徳川ミュージアム(平23・12・6)
  • 史跡名勝天然記念物

水戸德川家は、家康11男の頼房を家祖とし、慶長14年(1609)に25万石 で水戸に入封した徳川御三家の一つで、元禄14年(1701)に35万石に石直され、明治維新まで水戸藩を領した。藩主は参勤交代しない、江戸定府が通例であった。分家(御連枝)は讃岐国高松藩主松平家(12万石)、陸奥国守山藩主松平家(2万石)、常陸国府中藩主松平家(2万石)、同宍戸藩主松平家(1万石)の4家があった。
 水戸德川家墓所は、瑞龍山と号し、茨城県の北部、常陸太田市の北部郊外、阿武隈山地から続く国見山の南側丘陵斜面部に立地している。東西約360m、南北約50 0m、標高134mから65mの範囲に営まれ、東に里川の沖積平野を、西に谷津田を望む景勝地であり、昭和40年代頃まではアカマツ林に囲まれていた。讃岐松平家以外の3支藩の分家は、本家の水戸藩主德川家と同じ墓所に埋葬されている。単一の藩主家名を付すことに無理があるため、本家の家名に基づく名称を用いる。
 墓の形態は、2代光圀が儒教に基づいて定めた水戸德川家独自の形態である。葬祭は無宗教であるため、墓所内に菩提寺は無く、僧侶の立ち入りは禁じられていた。墓所は、寛文元年(1661)の初代頼房の埋葬、墓造営に始まり、延宝5年(167 7)に頼房側室久子(光圀生母)、初代水戸領主の武田信吉(家康5男)、2代夫人尋子 が水戸から改葬され、本格的な墓所造営が開始された。江戸時代の墓は水戸藩主(当 主)・夫人墓が29基、一族墓が86基、その他4基の合計119基営まれた。
 瑞龍山墓所の中程に小さな沢が入り、東西二つに分かれる峰の南側斜面に墓が点在する。東の峰には初代、7代、9代、11代、12代、13代の墓が、西の峰には2代、3代、4代、5代、6代、8代、10代の墓が営まれ、代が降るに従って下部に造営された。
 当主・夫人墓は、方形の石積み基壇の同一区画内に営まれ、四周に玉垣を巡らし、正面に当主墓、右手に夫人墓を配置する。中央に長方体の石材を3段に積み重ねて玉壇を築く。玉壇の上に亀趺を据え、その上に墓標を建て、墓標の背後に漆喰で固めた当主埋葬用の側面からみると台形、正面からみると上部が丸を帯びた三角形の馬鬣封と、夫人埋葬用の円錐型の馬蹄封を築く。初代頼房は正室を迎えなかったために墓は1基である。頼房墓の区画外の東隣に側室久子の墓が営まれた。10代と13代は正室を二人迎えたため、3つの玉壇が並んでいる。2代光圀だけが、生前に自らの墓の前の一段下がった場所に寿蔵碑を建てている。
 墓所東側の平坦地には一族墓が営まれた。一族墓は、支藩の守山・府中・宍戸藩の各藩主・夫人、本藩・支藩の藩主生母、側室、夭折した子女等で、時代が降るに従って東側に営まれ、墓所が東側に拡張されたことを示している。
 朱舜水墓は東西峰の間の沢地形の窪地に営まれている。舜水は万治2年(165 9)に日本に亡命した中国明朝末の儒学者、光圀の儒教の師で、天和2年(1682)に江戸の水戸藩邸で死去した。農業や医学等にも優れた才能を発揮して光圀の藩政を支え、光圀は自ら門人と称して舜水を敬慕していた。
 墓所南側の入り口部参道沿いの東側には参拝の際に装束を整える御装束所が、西側 には警備のための番所がある。正式な参拝では、一つの墓の参拝を終えるたびに御装束所に戻り、装束を整えてから別の墓を参拝した。
 水戸德川家墓所は、光圀が定めた儒教葬の様式を遵守して、当主家と3支藩の分家が、同一の墓所で墓を営み続けた特徴的な大名家墓所であり、近世大名家の墓制、家族史、歴史文化を考える上で重要である。よって史跡に指定し、保護を図ろうとするものである。

水戸德川家墓所

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