本寺は、法興寺または、元興寺もしくは、飛鳥寺と呼ばれ、その名は、日本書紀などに見える。法興寺の名は、日本書紀の本寺創建の記事にあり、また、元興寺の名は、平城京に設けられた元興寺に対し、本元興寺と称せられており、いずれも尊重すべきであるが、飛鳥寺の名は、ひろく親しまれ、かつ典據もあるので、飛鳥寺の名に従うことゝする。
本寺跡については昭和三十一、三十二両年度に奈良国立文化財研究所が発掘調査を実施した結果、地下深く巨大な心礎を据えた塔を中心として、その北、東および西にそれぞれ中金堂(現安居院本堂がこの上に建てられ、いわゆる飛鳥大佛がある。)東金堂および西金堂のあったことが明らかとなり、中門とこれより派出して上記の堂塔を囲む廻廊および、廻廊外の講堂も検出された。また廻廊の外に南門、西門も明らかにされ、南門前に石敷参道とこれにつづく石敷広場も見出された。
旧境内の範囲決定については、なお調査を要するが、たとえば西門と相対するところに礎石、瓦堆積地が報ぜられており、注意を要する。
また伽藍の東南方、崖斜面に登窯の跡があり、本寺跡に関連するものと考えられる。
今回の指定に当っては、およそ上記の遺構に即して保存の途を講じようとするものであって、その地域は(一)中門、廻廊とその内部の塔、金堂および西門の地区、(二)講堂地区、(三)南門とその南面参道および石敷広場の地区、(四)東方の礎石、瓦堆積地区、(五)瓦窯とする。
S39-06-013飛鳥寺跡(史跡).txt: 飛鳥寺跡は、昭和31、32両年度に奈良国立文化財研究所が発掘調査を行った結果、ほぼその全貌を現わした日本最古の寺跡であり、飛鳥時代の象徴として重要なものである。