銀板写真(島津斉彬像) ぎんばんしゃしん(しまづなりあきらぞう)

歴史資料/書跡・典籍/古文書 / 江戸

  • 鹿児島県
  • 江戸 / 1857
  • 1枚
  • 尚古集成館 鹿児島県鹿児島市吉野町9698-1
  • 重文指定年月日:19990607
    国宝指定年月日:
    登録年月日:
  • 株式会社島津興業
  • 国宝・重要文化財(美術品)

 安政4年(1857)に、薩摩藩主島津斉彬を撮影した銀板写真(ダゲレオタイプ)である。
 銀板写真は、フランス人ダゲールが発明した最初の実用的写真術で、湿版写真が普及する1850年代まで欧米で普及した。銀メッキを施した銅板に沃素または臭素を蒸着させて感光材とし、写真機に装着して、撮影する。その後、水銀蒸気にさらすと感光した部分が黒く変化し陽画が現れるので、洗浄して感光材を除去し、画像を定着させる。鮮明な画像が得られるが、左右反転像となること、複製ができないことが欠点である。
 写真術の情報は発明から10年ほどで日本に伝わり、少数ながら撮影機材が長崎経由で輸入されて、福岡藩、佐賀藩などの大名や蘭学者が研究を行っていた。斉彬も、西洋の科学技術研究の一環として、嘉永2年(1849)ころから写真術の研究を始めた。市来四郎<いちきしろう>(広貫)、松木弘安<まつきこうあん>(寺島宗則)、川本幸民<かわもとこうみん>らが研究にあたり、斉彬も自ら実験に手を染めたが成功を見ず、お由良騒動など藩内の政治的混乱もあって、研究はいったん中断した。斉彬の藩主としての地位が確立し、集成館事業が軌道に乗ったころから、あらためて写真術の研究が再開された。写真機や薬品は長崎で買い入れるなどしたものの、調剤や現像の技法などは洋書をたよりの独学で、大きな苦労を伴ったようである。
 この写真は、安政4年9月17日に鹿児島城内で撮影されたものである。市来四郎は『斉彬公御言行録』の中で「十七日、天気晴朗、午前ヨリ御休息所御庭ニオイテ(此日ハ御上下御着服ナリ)三枚奉写」と回想している。市来が以前に撮影した写真と併せて提出したところ、斉彬は3枚だけを手元に残し、あとは廃棄するように指示したという。3枚は、それぞれ斉彬近親の女性たちに与えられたが、側室須磨が持ち伝えた1枚がこの銀板写真と推定される。
 現状は、銅板の上を薄いガラス板で覆って保護しており、裃を着けた斉彬の上半身像が肉眼で判別できる程度に認められる。明治16年(1883)に、島津家から斉彬の肖像画制作の依頼を受けて、この写真を見た大蔵省印刷局長得能良介<とくのうりょうすけ>は、「順聖公之銀版 御写真壱枚、先年長崎江御回相成、複写之事御下命有之候処、既錆渋画様模糊トシテ、再照不相調」と報告しており、早い時期から、かなり見づらい状態であった。その後長くその所在が知られなかったが、昭和50(一1975)に、尚古集成館に所蔵されていたものが確認された。
 幕末期は、写真術の主流が銀板から湿板へ移行する時期にあたり、日本への銀板写真術の導入は短期間にとどまった。来日した欧米人が日本人を撮影した銀板写真は、国内に数枚伝来しているが、この写真は、日本人の手によって撮影に成功したことが確認される唯一の現存例である。わが国写真史上、価値が高いだけでなく、幕末における開明的大名による西洋科学技術の摂取の一端を示す資料としても、意義が深い。

銀板写真(島津斉彬像)

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