菅浦は,琵琶湖最北部の急峻な沈降(ちんこう)地形に営まれた集落である。鎌倉時代から江戸時代にかけての集落の動向を記した『菅(すが)浦(うら)文書(もんじょ)』によると,永仁3年(1295),菅浦は集落北西に所在する日指(ひさし)・諸河(もろこ)の棚田(たなだ)を,隣接する集落である大浦(おおうら)と争い,以降150年余りにわたって係争が続いたことが知られる。また,14世紀半ばには住民の自治的・地縁的結合に基づく共同組織である「惣(そう)」が,菅浦において既に作り上げられていたことが分かる。中世以来の自治意識及び自治組織は,時代に応じて緩やかに変化しながら,現在まで継承されている。
菅浦の居住地は,西村及び東村に大きく二分され,それぞれ西の四足門(しそくもん)及び東の四足門で集落の境界を表している。また,湖から集落背後の山林にかけて連続する地形の中で明確な集落構造が認められる。特にハマと呼ぶ湖岸の空間は,平地が狭小な菅浦において極めて有用であり,生産の場・作業場・湖上と陸上との結節点といった多様な用途が重層している。
このように,菅浦の湖岸集落景観は,奥琵琶湖の急峻な地形における生活・生業によって形成された独特の集落構造を示す景観地である。中世の「惣」に遡る強固な共同体によって維持されてきた文化的景観で,『菅浦文書』等により集落構造及び共同体の在り方を歴史的に示すことができる希有な事例である。