宇和島藩領の東山田村・野田村・伊賀上村(愛媛県西予市)と吉田藩領の俵津浦(愛媛県西予市)との間で起きた山をめぐる境界争論を裁定した絵図。文化10年(1813)に宇和島藩の測量技術者、小川五郎兵衛(久忠)が藩により俵津浦を測量して絵図に仕立てているが、本図も小川がその測量成果をもとに作製したものといえよう。山側に複雑に折れ曲る白線が見えるが、この白線が3カ村側の主張する村境。一方、俵津浦は絵図に描かれている範囲の全体を村域と主張しており、両者の認識には大きな隔たりがあった。そこで、白線から上側をいずれにも属さない入会場とすることで、争論は決着をみている。裁決結果を記した絵図の裏書には、俵津浦と入会地との境界に248本の立石を設置し、5番目ごとの石に数字を刻んだことが記されている。本図には、複雑な境界を確定し、写実的な表現で絵図に記録した、五郎兵衛の高度な測量技術、絵図の作製能力が随所に見られる。