18世紀末以降、長崎では江戸の洋風画家たちに少し遅れて、西洋風の表現を手がかける人たちが出てきました。海外情報が蓄積されてオランダ趣味が流行しますが、肝心のオランダ船がナポレオン席巻のあおりで日本に来航できなくなり、日蘭交易が不調に陥っていた時期でした。出島のオランダ人、あるいは長崎奉行や蘭癖大名(オランダ趣味を好んだ大名)などからの西洋絵画の注文を、かわりに長崎の画家たちが応える状況が生まれていました。
若杉五十八(わかすぎいそはち、1759~1805)は、長崎奉行のもとで地役人を勤める家系に生れ、貿易の事務にあたる会所請払役を務めました。職業画家としての経歴は不詳ですが、優れた油彩画を遺したことで知られています。画面に無数の横シワが見られるように、元は軸装でしたが、20世紀に額装に変えられました。サインの字体は初々しく、落款の一部が「je(絵)」「QUA(画)」と日本語の音を欧字で表記するにとどまっていることなどから、初期の作品と推定されます。青色は輸入顔料のプルシアンブルー、緑もプルシアンブルーと黄色顔料で着色されています。五十八が、透明感のある明度の高い青い空を表現できたのは、まだ輸入量が少なく高価であった外国製の絵具を使用できる立場にあったためでしょう。
【長崎ゆかりの近世絵画】