加賀前田家3代当主・前田利常が「利光」と名乗っていた時代(1601~29年)の書状。残念ながら宛所の記載はなく、後欠の可能性もある。
意訳すると、「石花(テングサ)一折が贈られてきた、大変嬉しく思っている。そして、病床にある前田利長(利光義兄)様の高岡城へ見舞いの道中だが、今日、今石動(現小矢部市)に到着した。何事も無ければ、やがて金沢城へ帰る。ゆるゆると湯治されてくださいとのこと、もっともである」となろうか。
本史料は木倉豊信氏が紹介する「上坂家文書(こうさかけもんじょ)」目録の26号(『富山史壇』33、1966.3)。木倉氏は年代を慶長19(1614)年と推測しているが、根拠を示していない。利長は同15年(1610)~同19年(1614)に病床にあったのでその期間のものということはできよう。
「石花」はテングサで、その異称は「石花菜」とも「海石花」ともいう。
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【釈文】
石花一折到
来、喜悦之
至候、然は高岡
為御見廻、今
日至于今石動
相越候、仕合能
頓而可令帰城候、
緩々与湯治可
有事尤候、
謹言、
筑前守
卯月四日 利光(花押)
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本史料は木倉氏が紹介しているように、「上坂家文書」(35通)の内である(上坂家は現高岡市東海老坂の旧家)。本史料以下、次の6通が連続して巻子装されている。天正7年(1579)11月16日付神保氏張知行安堵状(海老坂藤兵衛宛)、年未詳7月28日付奥村伊予守書状(宛所不明)、年未詳6月20日付横山英盛書状(海老坂村五兵衛宛)、年未詳2月11日付横山貴林書状(海老坂村五兵衛宛)、年未詳5月10日付横山貴林書状(海老坂村五兵衛宛)。この内、木倉氏が「上坂家文書」として採録した35通に入っているのは、神保氏張知行安堵状のみであり、この表装順に特に意味は無いようである。