二俣城跡及び鳥羽山城跡 ふたまたじょうおよびとばやまじょうあと

史跡 城跡 / 明治 大正 昭和以降

  • 静岡県
  • 戦国~江戸
  • 静岡県浜松市
  • 指定年月日:20180213
    管理団体名:
  • 史跡名勝天然記念物

天竜川が山塊を抜けて平地に移行する転換点に位置する中近世の城跡である。浜松市教育委員会は平成21年度より総合調査を実施し,両城跡(しろあと)の文化財的価値の究明を進めてきた。二俣城跡は南北300m,東西250mの規模で,堀切や竪堀がみられ,北の丸,本丸,二の丸,南の丸,西の丸などの郭(くるわ)から成る。築城時期は定かではないが,今川氏,徳川氏,武田氏の攻防の舞台となった。徳川家康が武田氏より二俣城を奪い返すが,天正  18年(1590),家康が関東に移ると,遠江西部は豊臣秀吉配下の堀尾吉晴の領有となった。本丸や西の丸を中心とした石垣や天守台はいずれも堀尾氏によるものと考えられる。鳥羽山城は,『三河物語』に家康が武田氏から二俣城を奪還するために本陣を置いた場所とみえる。南北350m,東西400mに残る,本丸の石垣や大手門などの遺構は,堀尾氏によって整備された最終段階の遺構と考えられる。本丸では発掘調査により枯山水の庭園や礎石建物が検出され,大手の調査では最大幅9mに及ぶ大規模な道が造成されていることが明らかとなった。二俣城跡及び鳥羽山城跡は,戦国期に造られ,堀尾氏によって,前者は軍事的拠点として,後者は居館として,機能を分化しつつ整備された様子をよく示す城跡である。戦国期から近世にかけての城郭の変遷,政治・軍事のあり方を知る上で重要である。

二俣城跡及び鳥羽山城跡

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