桜ヶ丘銅鐸・銅戈は、昭和39年(1964)12月10日、六甲山系から南へ続く山麓斜面の灘区桜ヶ丘町で発見されました。そこは尾根稜線から少し下った標高243mの北東方向を向いた斜面地で、東方に現在の芦屋市方面をわずかに望むことしかできないような場所です。家屋の壁土用の土砂を採取するために掘削作業をしていた人たちによって偶然に掘り出されました。
昭和45年5月25日には「桜ヶ丘銅鐸・銅戈群」として国宝に指定されました。
桜ヶ丘銅鐸・銅戈群の特徴は、第一に合計14口の銅鐸が一括して埋納されていたことで、銅鐸とともに7口の武器形祭器とされる銅戈が埋納されていたことも大きな特徴です。第二には、14口の銅鐸のうちに絵画の描かれた銅鐸が4口(1号・2号・4号・5号)含まれていることです。第三には、埋納された14口の銅鐸の形態と特徴から、製作された時期に明らかに差異が認められることです。
桜ヶ丘銅鐸を鈕の形態と鐸身の全体形態から分類しますと、外縁付鈕式(鈕の外側に装飾用の縁が付き、これに伴って鐸身の両脇に鰭が付く)の4口が、1号→2号→3号・12号と変遷し、扁平鈕式(外縁付鈕の内側にも装飾用の縁が付き、鈕全体が扁平なもので、鰭の幅が広くなり、鐸身とともに反りが強くなる)の10口が、13号→4~11号・14号と変遷することが知られています。桜ヶ丘銅鐸には、最古段階の菱環鈕式銅鐸と最新段階の突線鈕式銅鐸が含まれていない構成からみると、桜ヶ丘銅鐸群は弥生時代中期末から後期初めころに埋納されたと推定できます。
銅鐸は弥生時代の農耕のマツリに使われた祭器とされ、描かれた小動物や人などの絵画は、農耕に関わるものと考えられています。当時のくらしを考えていくうえで、たいへん貴重な資料です。
【古代の神戸】