猿留山道 さるるさんどう

史跡 その他 / 飛鳥 奈良 平安

  • 北海道
  • 江戸~昭和
  • 北海道幌泉郡えりも町
  • 指定年月日:20180213
    管理団体名:
  • 史跡名勝天然記念物

18世紀後半,ロシアが南下政策をとるなか,江戸幕府は北方警備を強化するため,寛政11年(1799)に東(ひがし)蝦(え)夷(ぞ)地(ち)を直轄化し,幕府として初めて,悪天候時に通行が困難となる海沿いの道に代わる,様似山道と猿留山道を開削した。このとき,場(ば)所(しょ)請(うけ)負(おい)人(にん)の交易所である運(うん)上(じょう)屋(や)を会所(かいしょ)と改め,人(じん)馬(ば)継(つぎ)立(たて)の制度を整え,途中には小(しょう)休所(きゅうしょ)が設けられた。
猿留山道は伊能忠敬や松浦武四郎の記録のほか,蝦夷三官寺の一つである厚岸の国泰寺の僧侶の日記などにも記述がみえる。箱館奉行村垣(むらがき)範(のり)正(まさ)の蝦夷地巡見の記録も絵図として残され,ハート形の豊(とよ)似(に)湖(こ)が描かれている。また,沼(ぬま)見(み)峠(とうげ)には江戸時代に建立された石造物が現存している。明治18年(1885)に海岸寄りに新しい猿留山道がつくられ,江戸時代の猿留山道の一部は使われなくなった。また,幌泉(ほろいずみ)(えりも町庶(しょ)野(や))から広尾までの海岸道路が昭和9年に完成し,猿留山道の利用は減少していった。平成9年から所在調査や史資料調査が行われ,平成15年からはボランティアによる刈り払い作業などが実施されてきた。平成27年からのえりも町教育委員会による調査で,全長29.5kmのうち,6.32kmの区間(道有林内)が良好に遺存することが明らかとなった。道幅は   0.9m程で,豊似岳の山麓を通る道である。
幕府の東蝦夷地経営のあり方や北海道における交通制度のあり方を知る上で重要である。

猿留山道

ページトップへ