江戸時代,石見(いわみ)国(のくに)津和野藩初代藩主となった政矩(まさのり)以下,幕末に至る歴代藩主を葬った乙(おと)雄山(おやま)墓所及び菩提寺であった永(よう)明寺(めいじ)(島根県津和野町)と,政矩の父で因幡(いなば)国(のくに)鹿野(しかの)藩主であった亀井家初代茲矩(これのり)墓(のはか)(鳥取県鳥取市)から成る近世大名家墓所である。茲矩は,弘治3年(1557)戦国大名尼子(あまご)氏(し)の家臣の家に生まれ,主家再興のため毛利氏と戦い,後に羽柴秀吉のもとで功績を挙げて鹿野城主となり,慶長17年(1612)鹿野に没した。跡を継いだ政矩は,元和3年(1617)津和野に転封となり,以後亀井家は津和野藩主として明治維新に至った。津和野城下町の北西に位置する乙雄山中腹には,歴代藩主と一族の墓が一体的に営まれ,尖(せん)頂方柱型(ちょうほうちゅうがた),唐(から)破風(はふ)屋根(やね)付方柱型(つきほうちゅうがた),そして他の大名家に見られない独特な位牌型(いはいがた)の墓標が採用され注目される。乙雄山南西に位置する永明寺には江戸期の本堂などが残り菩提寺としての雰囲気を良く残す。境内に残る藩主一族・家臣墓の墓標形態は,藩主墓を最上位の規範とした序列に基づく。亀井茲矩墓は,鹿野城跡北西約 3㎞の武蔵(むさし)山(やま)頂部に造営され,亀井家の津和野移封後も維持された。その尖頂方柱型の墓標は成立期の大名墓の形態をよく示す。近世大名の葬制や祖先祭祀の在り方,藩主を頂点とする身分序列を示すものとして貴重である。