この書翰は、近藤重蔵が寛政11年(1799)6月21日に国後島のアトイヤで古川古松軒に宛てたものである。古川は天明8年(1788)に幕府巡検使とともに蝦夷地を調査した人物で、書翰を受けたとき73歳、備中国有井村(現岡山県倉敷市真備地区)に住んでいた。近藤は明和8年(1771)、江戸に生まれ、寛政7年に長崎奉行中川忠英に抜擢され長崎に赴任。寛政10年、松前蝦夷地御用を命じられ蝦夷地・択捉島の調査を行う。その後寛政11・12年、享和元(1801)・2年、文化4年(1807)に択捉島を中心に調査した。これらの調査をもとに、千島列島・蝦夷地を描いた「蝦夷地図式乾・坤」、石狩川火口付近を中心とした蝦夷地開発を幕府に上申した「總蝦夷地御要害之儀ニ付心得候趣申上候書付」や、千島・樺太・満州について述べた「辺要分界図考」などを著している。
書翰の内容には、古川の「東遊雑記」の記述内容が正確であることに感激した旨や東蝦夷地の様子、国後島の様子、蝦夷地で越年し翌年に択捉島から、更に得撫(うるっぷ)島までも調査する予定であること、最後に古川に対する敬意の辞が書かれている。