川原宮謁磐神社本殿
 附 摂社八幡神社本殿
   棟札 一七枚 かわはらのみやあちわじんじゃほんでん
つけたり せっしゃはちまんぐうほんでん
むなふだ じゅうななまい

建造物 / 江戸

  • 愛知県
  • 江戸時代中期 / 1702~1703
  •  桁行3間、梁間2間の身舎の前方に三間庇を付した大型の三間社流造で、現在は鉄骨スレート葺の覆屋内に南を正面にして建つ。軒は二軒本繁垂木、屋根は檜皮葺とし、箱棟を載せて端に鬼板を置く。妻飾は虹梁大瓶束で、2段の出三斗を載せ、梁行方向の肘木の先端には鰭状の彫刻を付す独特の形状を見せる。
     庇の柱は粽の無い面取角柱で、玉石の礎石上に土台を敷き、その上に木製礎盤を置いて立つ。各柱間に頭貫虹梁を渡して端に木鼻を出し、中備に蟇股を置く。また、身舎との柱間に繋海老虹梁を架け、中央間では斗栱背面に手挟を入れる。この手挟の形状・彫刻・彩色は独特で、重要文化財足助八幡宮本殿のそれに類似し、海老虹梁にも特異な紋様が描かれている。庇中央間のみに登高欄付きの木階七級を設ける。
     身舎の正・側面三方には刎高欄付きの縁を廻らし、側面の縁の後端には脇障子を付す。身舎の柱は粽の無い円柱(床下は八角柱)で土台上に立ち、四周の柱間には縁長押・敷居・鴨居・内法長押・頭貫を廻らし、頭貫端を木鼻として出す。身舎の側面及び背面の柱間は横板壁とし、正面の各柱間は敷居・鴨居間に嵌め殺しの格子戸を入れ、この奥の梁行一間を外陣とする。
     外陣の床は板敷きとし、天井は棹縁天井とする。身舎の後半は内陣(神座)とし、棟通りに位置する内陣正面柱筋の各間には縁長押・敷居・鴨居・内法長押・頭貫を通し、方立・小脇羽目を入れて両開き板唐戸を吊る。
  • 桁行3間(14尺6寸)、梁間2間(9尺4寸)の身舎の前方に三間庇を付した大型の三間社流造。
  • 1棟
  • 愛知県豊田市御蔵町粟下シ2番地
  • 豊田市指定
    指定年月日:20200601
  • 宗教法人 川原宮謁磐神社
  • 有形文化財(建造物)

 川原宮謁磐神社の由緒・沿革は詳らかではないが、棟札に記載された由緒によると、もとは「白鳥大明神」あるいは「川原ノ宮」と称し、祭神に倭男具那命(やまとおぐなのみこと)・若帯日子命(わかたらしひこのみこと)・大帯日子淤斯呂和気命(おほたらしひこおしろわけのみこと)を祀る阿摺の郷の総氏神であったという。
 南北朝の頃、兵乱によって社殿を失った額田郡阿知和村の謁磐神社の神職が、ご神体である大木食命(おおきくいのみこと)・千波夜命(ちはやのみこと)・建雷命(たてみかづちのみこと)・伊波比主命(いわひぬしのみこと)・天子八根命(あめのこやねのみこと)・市比賣命(いちひめのみこと)を供奉して御蔵村に逃れ、明徳5年(1394)に白鳥大明神の相殿に合祀して、「謁磐大明神」と称したという。
 明治2年に「式内御蔵神社」への改称を旧三河県へ出願したところ、「謁磐大明神」と称することを許されたといい、その後、昭和13年に由緒に鑑みて現在の「川原宮謁磐神社」へ改称した。
 現在の本殿は、棟札によって元禄15年(1702)4月9日釿初、8月15日上棟、翌16年遷宮であることが明らかで、大工棟梁は足助の岩本長八郎久令、葺師は岡崎の廣澤甚右衛門で、この他にも村々の肝煎などの氏名も知られる。

川原宮謁磐神社本殿<br />
 附 摂社八幡神社本殿<br />
   棟札 一七枚

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