b) 歴史 | 広島市は、中国山地から南流する太田川の三角州を中心に発達した都市であり、南は瀬戸内海に面し東・北・西は山地に囲まれている。江戸時代 には日本有数の城下町として繁栄し、明治時代以降(19世紀後半以降)、紡績、鉄鋼、機械等の分野における近代的な工業都市へと発展した。 1910年、広島県会は同県の産業振興のため、広島県物産陳列館の建築を決定し、設計をチェコ人の建築家ヤン・レツルに委嘱して1914年太田川の分流元安川の東岸に起工、1915年に竣工した。その後、名称を広島県産業奨励館と改めた。 日本は1930年代から中国と戦争状態にあったが、第2次世界大戦の開始後、1941年には太平洋及びアジア各地に戦域を拡大した。やがて連合国の反撃を受けることとなり、1945年になると、アメリカ軍による本土爆撃の激化や沖縄上陸によって、日本の敗色は濃くなっていった。アメリカ・イギリス・中国によるポツダム宣言発表の後、8月6日広島市に原子爆弾が投下された。8月8日ソ連が日本に宣戦を布告、8月9日長崎市に原子爆弾が投下され、日本はポツダム宣言を受諾して、8月15日第2次世界大戦は終結した。 ドームは、8月6日に広島市において被爆した広島県産業奨励館の残骸である。 第2次世界大戦後、広島市の復興が進む中で、爆心地近くに唯一残された旧広島県産業奨励館の残骸は、頂上の円蓋鉄骨の形から、いつしか人々によって原爆ドームと呼ばれるようになった。被爆後、ほぼ原形で保存されてきたドームは、1953年、広島市の申請に基づき、県から市に譲与された。永久保存を求める市民運動もあって、1966年に広島市議会がドームの保存を決議した。同年から保存のための募金運動が行われ、翌年第1回目の保存工事が行われた。1989年には再び募金運動が行われ、同年から翌年にかけて第2回目の保存工事が行われた。 ドームを基軸とする平和記念公園の建設は、1950年から始まり、1964年に完成した。同公園内に1955年完成した広島平和記念資料館には、被爆の惨状を伝える遺品等の資料が展示されている。広島市では、1946年8月に平和復興祭が開催されたが、この式典は後に広島市が主催する平和記念式典となり、1952年8月からは平和記念公園内の原爆死没者慰霊碑前で行われることとなった。同式典には外国人も多数参加している。 ドームはこのような歴史を通じて、この地を訪れる多くの人々に、核兵器の惨禍と平和の尊さを語りかけている。 付属資料5 被爆前の建物及び敷地の図面 付属資料11 原爆ドーム関係年表 |