北海道の東岸、根室半島と知床半島の中間には、オホーツク海にそそぐ標津川が見られる。この標津川の西岸には標津湿原と呼ばれる低湿地がひろがり、さらに西方に標高20メートル前後の標津丘陵地が展開する。この低丘陵の西裾には標津湿原から流れ出た小流ポー川が、また北裾には伊茶仁川があり、集落も形成する好適地となっている。
この標津丘陵地の縁辺には、伊茶仁カリカリウス遺跡と総称される擦文時代を中心とする集落跡が群在する。まず、ポー川にそう丘陵の東縁には、南のポー川支流南側の侵蝕谷の左右に2群、同支流北側の奥寄りの侵蝕谷上に1群、同支流とポー川の合流点に面した丘陵端におそらく3群が混在したかと思われる1群、その北方の直線的な丘陵縁に見られる侵蝕谷の左右奥方に3群、ポー川ぞいの丘陵北端部の侵蝕谷の左右に2群があり、常に侵蝕谷の左右、時には奥をも含め一種の対ともいうべき定まった構造で集落が営まれ、5谷11群、589の住居跡の存在がたしかめられている。次に、伊茶仁川にそう丘陵の北縁には3侵蝕谷が見られるが、東とは異なり、侵蝕谷の左右に群在する傾向は見られるもののその群界は明確ではなく652の住居跡が確認されている。本遺跡はオホーツク海に面する擦文時代を中心とする時期の集落としては規模も大きく稠密な在り方を示すものとして重要である。
古道遺跡は、昭和51年6月21日史跡指定されたものであるが、この地域の遺跡の広域な保有をはかるため標準遺跡群として今回統合するものである。約2万平方メートルの範囲内に擦文時代を中心とする竪穴住居跡146、小竪穴73があり、オホーツク沿岸の遺跡としては中規模の集落である。住居の配置に計画性が認められるなど、規模・性格において伊茶仁カリカリウス遺跡と好対称となっている。2遺跡とも竪穴住居・小竪穴が凹地として明確にのこされ、その形態が多くの場合、深い方形を呈することが指摘されている。両遺跡の内部にはそれぞれ1基ずつチャシの存在が確認されており、集落もチャシの関係を解明する上でも重要な遺跡である。