〔嘉永七年〕六月六日付坪井信良書簡(浄界宛) かえいしちねんろくがつむいかづけつぼいしんりょうしょかん じょうかいあて

歴史資料/書跡・典籍/古文書 文書・書籍 / 江戸

  • 坪井信良 (1823~1904)
  • つぼいしんりょう
  • 富山県高岡市
  • 嘉永7年/1854年
  • 紙本・継紙(6枚繋ぎ)・墨書
  • 縦15.8cm×横153.8cm
  • 1
  • 富山県高岡市古城1-5
  • 資料番号 1-01-32
  • 高岡市蔵(高岡市立博物館保管)

本史料は高岡佐渡家出身で福井藩を経て幕府奥医師となった蘭方医・坪井信良(1)が、義伯父(義父坪井信道の兄)にあたる浄界(2)に宛てて、幕末の動乱などを伝えた書状である。
年代の記載はないが、内容からペリー来航〔嘉永6年(1853)6月3日〕の翌年と思われる。この年3月28日、吉田松陰(3)が下田沖の軍艦に潜入し海外密航を企て失敗した「下田踏海(とうかい)事件」(4)などについての74行にもわたる詳報である。松陰の師であり、事件に連座した佐久間象山(5)についての記述も詳しい。二人が江戸に投獄されている期間のものである。
浄界は象山と親密な関係にあり(6)、当時清澄寺(現兵庫県宝塚市米谷)近辺にいたと思われる浄界が、福井藩医として江戸にいた信良に象山の情報を求めたものと思われる。
ちなみに、信良は高岡の兄・9代佐渡養順に対し、200通にも及ぶ書簡を送っており、それは現在高岡市が所蔵者の佐渡豊氏より寄託を受け、当館が保管している。その内容は宮地正人編『幕末維新風雲通信』(東大出版会、1978年)に翻刻されている。当時の社会・文化・経済・政治などの詳細が記されている大変貴重な史料群である。
その中に本史料同様、松陰や象山の動向を兄に伝える書状が7通みられた(7)。しかし、いずれも簡潔な記述であり、本史料のように長文ではない。
宮地正人氏は、「この書簡は新発見であり、浄界が象山と親交が厚い親戚とはいえ、信良が兄の他にも情報を提供していたことが分かった。また、象山は江戸の蘭学者世界の人物でもあり、同じ深川に塾があった信良とも接触があったはずで、情報交換の密度が判明する好史料」との見解を示している(8)。

<注>
1. 坪井 信良(つぼい しんりょう)
 生没:1823・10・2~1904・11・9(文政6・8・28~明治37)
医師。射水郡高岡町利屋町に医師佐渡養順の二男として生まれる。一八四〇年京都に出て小石元瑞に学ぶ。四三年江戸に出て坪井信道に師事。ここで才覚を現し,信道に見込まれて長女米子と結婚。 
 三一歳のとき,松平春嶽に招かれて侍医となる。六四年将軍家の奥医師に起用された。七三年日本初(二番目の誤り/仁ヶ竹注)の医学専門雑誌『医事雑誌』を発行。明治新政府になって,静岡病院・東京府病院に勤めた。享年八二。
(太田久夫/『富山大百科事典』〔電子版〕北日本新聞社、平成30年3月29日アクセス)

2.浄界(じょうかい) 
生没:1783~1855・11・15(天明3~安政2・12・23没)
僧侶(新義真言宗)。諱は無覚了、号は露菴、信天翁。書、詩文に長じた。坪井信良の義父・坪井信道(1795~1848)の長兄。美濃国池田郡脛永村(現岐阜県揖斐郡揖斐川町)の貧農・坪井信之の長男。
幼くして養叔父・近藤新介の養子となる。11歳で義父が亡くなると実家に帰る。寛政8年(1797)、妙覚院(現滋賀県長浜市宮前町)の栄雅阿闍梨のもとで出家(同時に次弟の実覚も出家)。のち近江長浜の福寿院の住職となる。文化元年(1804)年に父が亡くなると、末弟信道を福寿院にひきとり養育する。浄界は信道に「岐阜城主中納言織田公諱秀信(信長の孫)」の後裔という坪井家の家名再興を期待し、医家として身をたてるようすすめ、友人である儒医渡辺奎輔のもとで句読を学ばせる。次いで、信道を尾張藩儒・泰滄浪に預けるなどの支援をした。のち信道は伊東玄朴・戸塚静海とともに江戸の三大蘭方医と呼ばれるまでに大成する。
浄界は18歳で新義真言宗豊山派総本山・長谷寺(現奈良県桜井市初瀬)に入り仏教研究に励む。
28歳の時、実相院(現名古屋市熱田区伝馬一丁目)に入る。その頃、尾張藩儒・秦滄浪に儒学を学ぶ。34歳の時、再び長谷寺に入る。38歳の時、清徳寺(現神奈川県愛甲郡愛川町三増)の慶鎫和上に律を学ぶ。また長栄寺(現大阪市高井田元町)の明堂和上にも学ぶ。その他、高山寺(現京都市右京区梅ヶ畑栂尾町)、観音寺(現京都府乙訓郡大山崎町)、智積院(現京都市東山区)の弘賢阿闍梨等に学び研鑽を重ね、高貴寺(現大阪府南河内郡河南町)にて具足戒を受ける。これ以降、諸国巡歴に出て各地の人物と交わる。特に広瀬旭荘・佐久間象山との親交は深かった。44歳にして摂津武庫(尼崎から兵庫の沿海部)の風光を愛し、越木岩村(現兵庫県西宮市獅子ヶ口町)の草庵に籠り、数年間修練を重ねた。
天保3年(1832)、村人に乞われ無住の清荒神(きよしこうじん)清澄寺(現兵庫県宝塚市米谷)の30代住職となると、浄界を慕い、各地より多くの人々の帰依を集めた。浄界は荒廃していた諸堂を再建し、同寺中興の祖といわれる。しかし僅か3年にして賢住に住職を譲り、白露庵に隠棲した。庵前に設けた不動堂に朝夕礼拝し、詩書三昧の暮らしを営んだ。著書に『議論漫草』、『萍縦漫草』等がある。
(参考文献)
・『蓬莱山清澄寺記』清澄寺編、明治44年
・北康利『蘭学者 川本幸民 近代の扉を開いた万能科学者の生涯』PHP研究所、2008
・森川潤「萩藩医坪井信道―萩藩における蘭学導入の経緯について―」(『広島修大論集』第51巻 第2号、2010
・名倉敬世「文苑随想/其の30〈番外編・信長外伝〉実録,~燈台下暗し・「坪井信道」考~」2005(HP「東京木材問屋協同組合」平成30年3月29日アクセス)

3.吉田 松陰(よしだ しょういん)
生没:1830・9・20~1859・11・21(文政13・8・4~安政6・10・27)
幕末の武士,思想家,教育者。杉百合之助(ゆりのすけ)の次男。杉民治の弟。長門(山口県)萩藩士。山鹿(やまが)流兵学師範の叔父吉田大助の仮養子となり,兵学と経学をまなぶ。9歳のときから藩校明倫館で山鹿流兵学を教授。嘉永3年から諸国を遊学して会沢正志斎,安積艮斎(あさか-ごんさい)らに従学。6年から佐久間象山に砲術,蘭学をまなぶ。7年下田沖のアメリカ軍艦で密航をはかるが失敗。幽閉された生家に,安政4年松下村塾(もとは外叔父玉木文之進の家塾)をひらき,高杉晋作,伊藤博文らにおしえるが,安政の大獄で6年10月27日刑死した。30歳。名は矩方。通称は寅次郎。別号に二十一回猛士。
【格言など】身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬともとどめおかまし大和魂(辞世)
(講談社「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」、平成30年3月26日アクセス)

4.下田踏海事件(しもだとうかいじけん)
嘉永7年(1854)3月28日、吉田松陰と松陰の一番弟子の金子重之助(重輔/重之輔)が、下田沖の米軍艦に潜入し海外密航を企て失敗した事件。これを松陰は「下田踏海」と呼んだ。
この前年の同6年6月3日、マシュー・ペリー率いる旗艦サスケハナ以下4隻のアメリカ合衆国海軍東インド艦隊の艦船が浦賀沖にあらわれた。ペリーはアメリカ大統領フィルモアの開国を迫る親書を幕府に渡す。しかし当時将軍徳川家慶は病床に伏しており、幕府は将軍の病を理由に結論を出すまで1年間の猶予が欲しいと訴える。ペリー艦隊は翌年また来ると約束して引き上げていった。
浦賀に駆け付け黒船を見た松陰は、先に到着していた師の佐久間象山(松代藩士)から日本にも黒船の必要性や造船・操船技術を外国から学び日本の国力を上げる必要性を聞かされた。また一説にこの時、象山は松陰に暗に外国行きを勧めたともいう。象山の言葉に感銘を受けた松陰は、象山のもとでオランダ語と砲術を学び、さらに藩主毛利敬親に軍制を西洋式に改める意見書を提出した。
ペリーが浦賀を去ってから1か月後の7月18日、ロシアのプチャーチン艦隊が長崎を訪れるという話を聞き、松陰は弟子の金子と共に密航計画を立てて長崎に駆け付けた。この時、象山は激励のために「吉田義卿を送る」の詩を松陰に渡した。しかしプチャーチン艦隊はクリミア戦争に参戦するため、予定より早く長崎を引き上げていた。
翌嘉永7年1月16日、再度ペリー艦隊が江戸湾に入港。3月3日、日米和親条約が結ばれ、下田と函館の開港、下田に領事館を置くこと、アメリカを最恵国待遇とすることなどが定められた。
翌4日、松陰と金子はペリー艦隊を追って横浜へ、のち下田へ移動。弁天島に身を隠して3月28日午前2時頃、密航を試みた。旗艦「ポーハタン号」に乗り込んだ2人は、船員に渡航を願い出たが、拒否される。計画に失敗した松陰・金子は即日自首、下田奉行所に捕えられ、4月15日江戸伝馬町牢屋敷に入牢。この時、松陰らが黒船に近づく為の小船に残した荷物から、象山の先述の詩が発見され、象山も事件に連座。4月6日に同じく伝馬町牢屋敷に入牢となった。
9月18日、判決が下り、老中・阿部正弘の計らいで死罪をまぬがれた2人はそれぞれ国元で蟄居(幽閉)となった。松陰は萩で2年6ヶ月幽閉、金子は翌年1月獄死(享年24)。象山は松代で9年間幽閉。
(参考文献)
・本郷隆盛「吉田松陰」(『国史大辞典』14巻、吉川弘文館、平成5年、p407
・歴史街道編集部「下田踏海~吉田松陰と金子重輔が密航を試み失敗」2017.3.27(HP「WEB歴史街道」平成30年3月29日アクセス)
・「吉田松陰による『踏海の企て』」2010.3.12(HP「下田市」平成30年3月29日アクセス)

5.佐久間 象山(さくま しょうざん)
 生没:1811・3・22~1864・8・12(文化8・2・28~元治元・7・11)
江戸時代後期の武士,思想家。妻は勝海舟の妹。信濃(長野県)松代藩士。江戸で佐藤一斎にまなび,神田で塾をひらく。天保13年老中真田幸貫(ゆきつら)に「海防八策」を提出。江川英竜(ひでたつ)に西洋砲術をまなび,勝海舟らにおしえた。嘉永7年吉田松陰の密航事件に連座。のち公武合体,開国を説き,元治元年7月11日京都で尊攘派に暗殺された。54歳。名は啓(ひらき),大星。字(あざな)は子明。通称は修理(しゅり)。号は「ぞうざん」ともよむ。著作に「省諐録(せいけんろく)」など。
【格言など】東洋の道徳,西洋の芸術,精粗遺さず,表裏兼ね該(そな)え,よって以て民物を沢(うるお)し,国恩に報ず(「省諐録」)
(講談社「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」、平成30年3月26日アクセス)

6.浄界と佐久間象山
『蓬莱山清澄寺記』(清澄寺編、明治44年、p32-34)には、「露庵(浄界)の交遊」の項に「彼の幕末の英傑佐久間象山翁の如き親交最も深く」とあり、浄界が所有する琴について象山に問い合わせると、象山は自製の弦を浄界に漢詩を添えて贈った逸話を紹介している。そして、「交情の尋常ならざるを知るべし。」とある。

7.松陰や象山の動向を兄に伝える信良書状7通(抜粋)
宮地正人編『幕末維新風雲通信』(東大出版会、1978年)収録。全て嘉永7年(1854)。
①4月11日付「長州之浪人吉田虎之助と申者、アメリカ船へ竊(ひそ)カニ乗入、彼邦へ趣キ、兵学脩行可仕内意之由。右ハ佐久間修理(象山)ニ入門弟子ニ御座候故、佐久間より添書ニテ浦賀与力迄極々竊カニ頼遣候。尤も送別之作アリ。扨此事露見ニ及、乕(虎)之助ハ勿論之事、浦賀与力、佐久間等、当月五日より皆々上り屋ニ被入、御吟味殊之外厳敷、如何相成候哉、相分リ不申候。佐久間之一件ハ、何も他意之無キ事ナカラ、御国法ヲ破ル処其罪不軽、添書と詩と之二ツニ因テ大当惑ニ御坐候。尚後日委敷可申上候。右之如キ類、他ニも有之由、大失策ニ御坐候。」
②4月27日付「佐久間氏一件、先便申上候通リ何共気之毒千万、其後何等之御吟味も無之、徒然在獄中、可惜可畏事ニ御座候。」
③閏7月1日付「佐久間・吉田乕之助、今以御免無之、暑熱中牢獄気之毒之至ニ御座候」
④閏7月21日付「佐久間象山未タ決着不仕、可惜可憐之至ニ御坐候。畢竟ハ吉田虎之助贈別之一詩ニ因リ六ヶ敷成候也。其詩、
送吉田義行(他の多くの資料では「行」は「卿」)
之子有霊骨、久厭躄々群、奮衣万里道、心事未語人、雖則不語人、忖度或有因、送行出郭門、孤鶴横秋旻、環海何茫々、五洲自有隣(為周)、流風究形勢、一見超百聞、智者貴投機、帰来須及辰、不立非常功、身後誰能賓、
案スルニ忖度或有因一見趣旨聞ユ。句大眼目と奉存候」
⑤8月7日付「佐久間一条今以無落着。吉田寅二郎等手紙写。アメリカ人和親条約一通。右拝呈仕候」
⑥8月17日付「佐久間象山一件、今以不決、同人獄中作。
幽囚十旬心不平、秋風忽動故園情、境陰常見狐烏影、天遠難邀日月明、屋外林泉何改色、門前松菊不忘栄、水清石秀曽遊地、野鶴渓猿有旧盟。
情景兼総実ニ可憐事ニ御坐候。此上如何成行ヤラ気之毒千万ニ御坐候」
(※9月18日判決が下る。)
⑦10月4日付「佐久間先生、吉田虎次郎、孰(いず)レモ決着、皆々其屋敷へ御預ケニ相成申候故、夫々御国元へ被送、屋敷牢へ入置、番人附置厳重之取扱之趣ニ御坐候。先々軽ク相済申候者之可憐可惜事ニ御坐候」

8.宮地正人氏よりの葉書
平成30年4月18日付の高岡市立博物館 仁ヶ竹宛。

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【釈文】
五月既望(十六日)之尊書、六月三日村田(巳三郎氏寿)ゟ
到来奉薫読候、時下遂日暑気相募
申候得共、倍御清穆御起臥被為在
大慶不過之候、次ニ当方家族一同無異
消光罷在申候条、乍憚御安襟可被下候、
夷船一條も静謐与申条、伊豆下田湊
及松前箱館与之二ヶ処ニ於テ交易
場御開ニテ、専ラ互市ニ御座候、尤も
各々彼ゟ彼地之産物ヲ献シ申候故、我
国家土物ヲ以テ報之与申事ニテ、則
其実互市而已、右ニ付、当分之内ハ無事
ニハ御座候得共、後年必ス争利之事ゟ
争端ヲ開キ可申、要之十分彼之
術中ニ陥申候様ニ御座候、何分ニも太平
之久敷、上下宴安・姑息・苟且之
策ノミ被行、少々本気ニ成り打払之説
ヲ唱申候者ヲハ、好事之者之様ニ申落シ、
嘆敷有様ニ御座候、季世之弊風宗(宋)代
金賊猖獗之勢有之、唯々恐入申候事ニ御座候、
水府老公(水戸斉昭)抔ゟ種々建策御座候得共、頓与
御取用之様子も無御座候、
佐久間修理(象山)義、嫌疑ニ触申候事ゟ段々
六ヶ敷、四月上旬ゟ入獄仕申候、扨々気
之毒千万、当人ハ可憐ノミナラス、如斯人ヲ
如斯之御取扱ニテ、讒言被行、賢者遁避
之世風御考推可被下候、元来佐久間之弟子ニ
吉田乕(寅)次郎(松陰)〈長州/浪人〉与申者アリ、当春異
船内海へ乗込滞泊仕候内、佐久間之添書
ヲ受テ、右異船掛浦賀与力某ヲ頼ミ内々
右船見物ニ参リ申候、尤窃ニ与力ヲ頼ミ、
彼船見物ニ行申候者、此地夥敷有之候由、然処
乕次郎趣キ申候而ハ、折悪敷彼手引之
与力某御用ニテ他所へ行申候跡ニテ、乕次郎
彼ニ対面不致、佐久間之添書も懐中ニアリ、
乕次郎も無拠、夜中ニ浜ニ繋れ候舟ヲ一艘盗ミ、
身自分ニ掉シテ異船ニ近寄、乗込度趣
申出候処、異船ニテハ中々不聞入、彼ゟ送リ返シ
心悪キ輩抔、種々誣言ヲ申立、元来佐久間、
異心有之、アメリカニ内通致可申、乕次郎ヲ
使者ニ遣候抔与申事ニ相成リ、気之毒成哉、
佐久間ハ乕次郎与同罪ニテ入獄被仰付、
已ニ六十日以外入獄ニ御座候、今以爾後之御吟味
無之、唯々禁錮厳敷、専ラ誣言ヲ以テ
罪ニ陥レ申候様ナル取計御座候由ニ御座候、勿論
佐久間之添書ニハ唯々与力ヲ頼ニ心得之為
ニも相成申候事故、彼船見物為致度与申頼
而已之由ニテ、明白ニ御座候由ナレトモ、時之勢無拠
事ニ相成申候、可恐可謹事ニ御座候、畢竟ハ其
才芸ヲ嫉ミ申候者之誣言ナレトモ、夫ヲ取用テ賢
者ヲ罪スル之取扱コソ末世之弊風、長嘆息之至御座候、
護持院僧正・雨引山主・針谷寺主等皆々
物化之由、扨々残念之事ニ御座候、
信友事、不病壮健出精勤学仕候、当時
大分学業も相進申候、御心安思召可被下候、
信敬大ニ成長、当時史記抔独見
為致置申候処、易キ処ハ少々宛解申候、
母事近来至極健壮、孫之世話有之
久(信良義妹)之宅へ参リ勝ニ御座候、折々往来仕居申候、
彼是歩行運動仕候事多キ故欤、大ニ
丈夫ニ相成申候、
小子事も屋敷ニテも皆々心(親)切ニ世話致呉レ、
段々取扱有之、四月中旬ニ奥医師ニ
被仰付、当時君上(松平春嶽)ハ御留守故、毎月
二回宛奥方之機嫌伺、診察仕申候、
是も幾日ニテも自分都合宜敷、邸近処、
通行之砌ニ出サヘスレハ宜シ、右之外ニハ何之
勤も無之、至テ安簡(閑)之事ニ御座候、
先ハ拝答旁、御動静伺度迄草々、
如斯ニ御座候、余奉期後鴻候、以上、
    六月六日     坪井信良
浄界老大和上様
       侍史
尚、時下折角御自玉被下度奉祈候、以上

【意訳】
五月十六日のお手紙、六月三日に村田巳三郎氏寿より到来し、拝読致しました。時下日を追って暑気が強くなっておりますが、益々御清祥にてお過ごしのことと存じ、お慶び申し上げます。次に当方家族一同無事に過ごしておりますので、ご安心ください。
黒船一件も静かとのことです。伊豆下田港、及び松前箱館との二ヶ所において交易場を開き、専ら貿易をするとのことです。尤も各々アメリカ人よりその国の産物を献じますので、日本の特産物をもってこれに報いるということにて、つまり、その実、貿易のみをするのであれば、当分の内は無事でしょうが、後年必ず利益争いが発端となり、紛争となる恐れがあります。十分アメリカ人に用心し、その術中に陥ってしまわないようにするべきでしょう。
何分にも泰平が久しく続き、皆遊楽にふけっています。(幕府は)姑息でその場限りの間に合わせの対策のみを行っています。少々本気になり、攘夷を唱える者を「物好き」と言ってけなすという嘆かわしい有り様です。
末世の悪しき習慣、今の世は拝金主義が蔓延し、唯々恐れ入っています。水戸斉昭公などより種々献策がありますが全く採用された様子もありません。
佐久間象山の件について、嫌疑に触れたということで、段々難しい状況になっています。四月上旬より入獄しています。さてさて気の毒千万、当人を憐れむべきのみならず、このような人をこのように取扱い、讒言が行われ、賢者は逃れ避ける風潮をお察しください。
元来、佐久間の弟子に長州浪人の吉田寅次郎(松陰)という者がいます。当春、吉田は黒船が江戸湾へ乗り込み滞泊している間に、佐久間の紹介状(黒船掛浦賀与力某を密かに頼むようにという内容)を受けて、黒船見物に参りました。密に与力を頼み、吉田は船見物に行きました。下田は夥しい人がいました。折悪しく、佐久間が紹介した与力某は御用で不在でしたので、寅次郎は彼に対面できずに、佐久間の紹介状も所持したままでした。寅次郎もやむを得ず、夜中に浜に繋がれていた舟を一艘盗み、自分で棹を漕いで黒船に近寄り、乗り込みたい旨を申し出ましたが、黒船では中々聞き入れられず、アメリカ人により送り返されました。
そして、段々取調べは難しい状況になりました。この機会に、兼ねて佐久間に恨みを持つ輩などが種々讒言を申し立て、「元来、佐久間には異心があり、アメリカに内通するつもりで寅次郎を使者に遣わした」などと言っております。気の毒なことです。佐久間ハ寅次郎と同罪で入獄を命じられ、既に六十日以上入獄しております。今だにその後の取調べも無く、唯々禁錮が厳しく、専ら讒言を以て罪に陥れようとしているようです。勿論、佐久間の紹介状には唯々与力を頼みに心得えさせようとするものであり、黒船見物をさせてやってほしいと頼んでいるのみであることは明白であるのですが、時の勢いはやむを得ないことになりました。恐るべき謹むべきことでございます。結局はその才能を嫉む者の讒言なのですが、それを採用して賢者を有罪にすることこそ末世の悪しき習慣です。呆れ果てるばかりでございます。
護持院(現文京区大塚にある真言宗豊山派の寺)僧正・雨引山(茨城県桜川市本木にある楽法寺の山号。真言宗豊山派)主・針谷寺(現千葉県長生郡長柄町にある日蓮宗の寺)主等は皆々ご逝去されたとのこと。なんとも残念なことでございます。
信友(信道長男。当時満二十歳)は、病も無く壮健で、勤めに学問に精励しております。現在、大分学業も進んでおります。御安心ください。
信敬(信道三男。当時満十一歳)は大いに成長し、現在は史記等を一人で読ませておりますところ、簡単なところは少しずつ理解しております。
母は近頃、至極健壮で孫の世話があり、久(義妹。大木忠益妻)の家へよく行っております。歩行運動することが多いからか、大に丈夫なっております。私も福井藩江戸屋敷にても皆に親切に世話してくれており、段々重く扱われています。四月中旬に奥医師に命じられ、現在、殿(松平春嶽)は御留守なので、毎月二回ずつ奥方のご機嫌伺い、診察をしています。これも幾日でも自分の都合が良い時に邸の近所を通る際に出さえすればいいのです。この他には何も勤めも無く、至って安閑な事でございます。
まずはお答えかたがた、御動静を伺いたいと存じます。御返事をお待ちしております。以上。
  六月六日   坪井信良
浄界老大和上様
       侍史
なお、時下折角御自愛くださいますよう、お祈り申し上げます。以上。

(翻刻協力 宮地正人氏、本多俊彦氏/文責 高岡市立博物館 仁ヶ竹 亮介)

〔嘉永七年〕六月六日付坪井信良書簡(浄界宛) かえいしちねんろくがつむいかづけつぼいしんりょうしょかん じょうかいあて

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