長崎半島の先端脇岬【わきみさき】にある観音寺の本尊として伝えられる半丈六の四十二臂千手観音立像である。
用材は桧とみられ、頭部のすべてと体部の前半を一材から木取りし、背面から内刳りを施し、躰部の背面襟下から地付に到るまで身幅一杯に別材を矧寄せる。
脇手は、この種四十二臂像の通例と異なり、前後別材製の上膊部の中間に二列に配されており、このため上半身は大きな空間を構成しているが、腰と裳裾を張出した長い下半身とによって安定した正面観が示される。
ふくよかな顔だち、抑揚をひかえた肉身部、浅く左右相称に刻まれた裳の衣文など、平安後期の特色が顕著に認められ、制作の時期は十一世紀末頃とみるのが妥当であろう。
この頃の優美な都作と比べると、やや洗練さを欠くことは否めず、既述した構造や像底に貫通する内刳などを併せ考えると、この地方での造像である可能性が大きい。
本像は、本寺所蔵の宝永五年(一七〇八)書写の『円通山観音寺縁起』にいう「本尊大悲千手観世音菩薩立像、其長八尺」にあたるものとみていいが、それ以前の伝来については明らかでない。
寺歴についても詳らかでなく、十三世紀末頃の『深堀文書』(重文)中にみえる京都・仁和寺末の「肥後崎寺」がその前身寺院かと思われるに過ぎないが、『元享釈書』叡好伝の記載などから、すでに平安時代後期の頃から、この地の観音の霊験が喧伝されていたことをうかがわせる。
ともあれ、本像は九州地方において遺品の稀な平安後期千手観音像の大作として注目され、表面の金箔や脇手の大方が補われながらも、彫り直し等の手が加えられずに今日まで伝えられたことも賞される。