田原本町宮古に所在し、薬師堂の名で呼ばれている会所に伝えられた、ほぼ等身大の如来坐像である。
用材は檜で、頭躰部のほぼ全容を、木芯を像の中央辺にこめた縦一材から彫成し、両膝頭から脛部にかけて薄く別材を当て、右臂先及び左手先を矧付け、内刳りは全く施さない。こうした構造は、仁和三年(八八七)頃の作とされる和歌山金剛峯寺西塔大日如来坐像(重文)とほぼ同様である。その作風には九世紀から十世紀初め頃に遡る一木彫成像、特に奈良及びその周辺に残る作品に多くの共通性がみられ、頭部を大きめにつくりながら、肩、両膝を張って安定感を増した姿態や、強い抑揚を示す胸腹部の肉取りは、新薬師寺や京都・薬師寺の薬師如来坐像(国宝・重文)に近い。やや面長で頬の張った下ぶくれの顔だちは、白毫寺や地福寺の菩薩像(各重文)、室生寺本尊像(国宝)のそれを思わせる。形式面でも左脛に垂れた衣文の端が、新薬師寺、奈良国立博物館、京都・醍醐寺薬師坐像(各国宝)でほぼ同じように扱われていることが注目される。以上の作風、構造から本像の製作は九世紀後半とするのが妥当であろう。
なお、本像の伝来については全く不明であるが、薬師堂の建つあたりには寺垣内、寺東、寺西、大門という小字名が残り、寺東からは中世まで遡る泥塔が出土するなど、かつてかなりの大寺院が存在していたことがうかがわれる。本像はもとこの寺院の一堂宇に祀られていたかとも思われる。
本像は、現状後補の漆箔等で表面を覆われ、両手先、裳先などが後補のもとにかわっているが、後世の大幅な改変は認められず、平安前期一木彫像の優品として貴重な遺品である。