『六波羅殿家訓』は、鎌倉幕府の六波羅探題、連署などをつとめた北条重時(一一九八-一二六一)が、その子息長時に与えた家訓で、同じく重時の家訓『極楽寺殿御消息』とともに鎌倉時代の武家の家訓の代表例として知られている。
本巻はその唯一の古写本で、もと袋綴冊子本を改装して巻子本としている。本文料紙は楮紙で、首に「六波羅相模守教子息□□状〈号極楽寺/ 重時□〉」と内題があり、以下もとの冊子の半葉九~一一行に片仮名交じり文に書写している。内容は、冒頭に総論にあたる部分があり、子の振舞は親の教訓によるので、思いつくことを書きおくとしている。ついで「仏神主親ニ恐ヲナシ」云々以下、四三か条にわたり従者や他人に対する態度、宴席などでの振舞い、衣服など日常生活での作法などを細かく指示している。このうち、第二条には他人に相談する際の心得を記し、「其猶計カタクハ重時ニカクトイフヘシ」とあり、この家訓が重時の与えたものであることを内容からも明らかにしている。また、第十六条は日常の家の中での振舞いのことを指示するが、文中二か所に脱文があって文意が通じ難く、後半は書状を書く際の心得を述べており、元来は二か条以上に分かれるものかと考えられる。巻末には貞和三年(一三四七)九月六日に醍醐寺智春坊で書写した旨の奥書があって書写年時を明らかにし、外題には「奥州禅門儀教抄」とあったと記している。さらに、ある所では「夜鶴聴訓抄」と題していた旨を記すが、この部分は墨で抹消されている。なお奥書の末には署名が僅かにみえるが判読できず、筆者は明らかでない。
この家訓は、その内容からみて若年の子息に与えたものと考えられ、長子の長時が一八歳で重時にかわって六波羅探題に就任した宝治元年(一二四七)か、それ以前に書かれたと推定されているが、個々の教訓はきわめて詳細かつ具体的で、当時の鎌倉上級武士の生活、思想の一端を示している。鎌倉時代の武士の家訓の数少ない遺例として、その史料的価値は高い。