著到和歌とは、人数を決め、日数を定め、その間一定の場所に参集して毎日一首ずつ和歌を詠むことである。本件は、室町時代和歌に御造詣が深かった後柏原天皇(一四六四-一五二六)の御製著到和歌百首と、天皇が侍臣と共に催された著到和歌二種三巻を併せ存し、もと禁裏から有栖川宮に伝来したものである。そのうち第一種の御製著到和歌は、文明十五年(一四八三)天皇が御年三十才澄仁親王時代の三月三日から詠ぜられた百首和歌を、自ら浄書されたものである。文末には栄雅(飛鳥井雅親)自筆の批点奥書があり、うち四十二首に合点が付されている。第二種の禁裏著到和歌は、天皇五十才の永正十年(一五一三)三月三日から、禁裏で侍臣十一名と共に催された和歌千二百首を、天皇が二巻に浄書されたものである。第三種の禁裏著到和歌は首尾を欠し年紀は不明であるが、永正二年以前に天皇が侍臣十一名と共に催された和歌を天皇が浄書されたものである。いずれも室町時代に盛行した著到和歌の代表的遺品として中世文学史上に注目され、かつ能書の誉れ高い後柏原天皇の筆跡を伝えて貴重である。