藤原為家の遺領播磨国細川庄(兵庫県細川町)地頭職をめぐる冷泉為相と二条為世との相論について、鎌倉幕府が正和二年(一三一三)七月二十日に下した裁許下知状である。
体裁は巻子装で、正和二年八月九日付の六波羅施行状を併せ継いで一巻とし、巻末には延宝八年(一六八〇)十一月吉日の冷泉為経識語を付している。
本文書は両者の主張を述べ、再三にわたる幕府の裁許や相論過程における証拠文書等の内容を引用している。これによれば、弘長三年(一二六三)に為相が誕生すると、為家は嫡子為氏の「不孝」を理由に文永十年(一二七三)七月二十四日・同年十一月二十四日に為氏から地頭職を悔返し、為相に与える旨の譲状を阿仏尼宛に認めた。建治元年(一二七五)に為家が没すると、為氏は地頭職の悔返しを認めず、以来細川庄の地頭職をめぐる相論は、為相と異母兄為氏との間で展開されていく。為氏が没してからは為世に相論が引き継がれ、正応二年(一二八九)十一月、鎌倉幕府の裁許によって、いったんは為相の地頭職伝領が認められるにいたったが、この裁許に為世から異議がとなえられ、同四年八月十四日には地頭職が為世に付与されたのである。そこで、本下知状にみえるように為相は再び越訴を起こし、再々度の幕府審判を仰いだのである。争点は、①為家譲状の先状と後状の文書効力、②悔返しの是非、③手継文書の紛失の有無、④祖父定家の遺命に違犯する行為であるか否か等である。訴訟の主因は②悔返しの是非であり、これをめぐり訴訟は複雑な様相を示すことになる。そして、正和二年七月二十日には、「於當庄地頭職者、任文永兩通譲状井正應二年下知状所被付前右衛門督家也」という最終裁許が下り、為相による地頭職伝領を認めることが下知されたのである。
本下知状は鎌倉幕府の裁判手続きを具体的に伝えた裁許文書であるとともに、公家社会における相論の三十余年におよぶ訴訟の経緯を詳細に示して古文書学上に価値が高い。