天明二年(一七八二)十二月、伊勢白子【しろこ】の船神昌丸【じんしようまる】は駿河沖で遭難し、アリューシャン列島の一孤島に漂着した。ロシア船に救助された船頭大黒屋光太夫【だいこくやこうだゆう】等は学者キリール・ラクスマンと知りあって首都サンクトペテルブルクに至り、女帝エカチェリーナ二世に謁見、帰国を嘆願した。その間、ロシア上流人士に厚遇され、大国として勃興しつつあったロシアを通じて西欧文明を見聞した。
当時ロシアは日本の北辺に迫り、日本船員の送還を好機に日本に通交を求めたため、光太夫等は寛政四年(一七九二)、遣日修好使節アダム・ラクスマンの船で根室に帰還した。帰国した光太夫と磯吉の二人は江戸に送られ、江戸城において将軍家斉【いえなり】の上覧を受けるとともに、幕府の医官で蘭学者である桂川甫周【かつらがわほしゆう】から漂流事情やロシアの政治・地理・文化全般とロシア語に関して詳細に聴取された。甫周は光太夫等が持ち帰った物品について精細な彩色写生図を作り、また各種地図についても模写を作成した。この記録は『北槎聞略』と題され、寛政六年八月に上呈された。
『北槎聞略』は本文十一冊、付録一冊、衣服・器什の図二巻、地図十点からなる。
本文は漂流事情と、ロシアの地理・風土や政治・社会の諸制度および生活・文化に関する七六項目に分類整理した記述で、十八世紀末のシベリア・ロシアについての広範・詳密な記録である。巻六の「文字」では初学者のテキスト用ロシア文字を記し、「宝貨」ではロシア貨幣の拓本を載せている。図二巻のうち「衣服」は、ロシアの衣服を図で示したもので、「器什」は、光太夫と磯吉が女帝から拝領したメダル・時計・煙草入を初め、エカチェリーナ二世像の掛絵、短刀・杖・顕微鏡のほか日用品等を描く。末尾に、寛政六年に「照真影写」したという桂川甫周の跋がある。地図は、地球全図のほか世界各地域、ロシア国内、首都サンクトペテルブルクの地図等の図で、いずれもロシア製の銅版地図を入念に模写している。
『北槎聞略』はわが国漂流記中の傑作であり、江戸時代の外国事情に関するすぐれた記録として、またわが国のロシア研究の端緒となる資料として価値が高い。