仁和寺は宇多【うだ】法皇を開祖とする密教寺院で、真言宗広沢流の本拠である。この「仁和寺黒塗手箱聖教」は、仁和寺に伝来している御経蔵【みきょうぞう】聖教、塔中蔵【たっちゅうぞう】聖教とともにまとまった聖教である。特に、歴代門跡が相承する孔雀経法をはじめとする諸修法や伝法灌頂など御流の法会などに関する次第書を中心とする構成になっている。
「黒塗手箱」の名称は、顕證【けんしょう】(一五九七~一六七八)による御経蔵聖教の目録「御聖教惣目録」に「第三 黒塗手箱」と初見する。顕證は寺内に伝来していた聖教や文書類を整理し、保存のために修理を施している。それらを納めるために新調された箱が「黒塗手箱」である。「黒塗手箱」の正面には、「傳法」「長者」「結縁」「五壇」「曼供」「日次」「付法」「入室・出家」「後七」「仁王・請雨」「如法」「北斗」「孔雀」「雑」「差図」「御修法」と白・朱漆にて箱書が記され、箱ごとに分類・整理されたことが知られる。
手箱に入るように、聖教の多くは顕證による修理時に巻子本から折本に改装されている。その際、巻子本の外題部分が截断されて、改装された折本の題簽に利用されているものもあり、折本の小口には墨書で書名が記されているものもみえる。
主要な箱の内容を示してみると、「傳法」箱には、御流、広沢流、小野流の伝法灌頂記が収められている。御流は仁和寺御室の法流であり、真言密教において最も尊貴な法流として重んぜられている。御流では仁和寺歴代の法親王の伝法灌頂記が伝えられている。
「結縁」箱には、守覚(一一五〇~一二〇二)が法親王として初度の大阿闍梨を勤めた寿永元年(一一八二)十二月の恒例結縁灌頂を記録した『観音院結縁灌頂記』が収められており、『観音院結縁灌頂交名』は守覚の自筆本である。
「日次」箱の『仁和寺御伝』は、「寛平法皇」(宇多天皇)より「道助法親王」(光台院御室)に至る仁和寺門跡の簡単な略歴を記したもので、その成立は鎌倉時代中期で、他に類本がない貴重なものである。また、『北院御室御日次記』は、守覚自筆の日次記として残る唯一の原本である。具注暦の間明(五行)に書き込む当時の日記の形態をよく伝えている。治承四年(一一八〇)十月八日から十一月三十日までの短期間の記事であるものの、その内容には十月十二日条の湛覚を殺そうとした熊野別当湛増に関する宣旨、十一月二日条の関東追討使の敗退(十月二十日の富士川の戦い)や十一月二十六日条の福原からの還都など、源平の争乱に関する興味深い記述もみえる。
御修法関係では、真言院後七日御修法をはじめとして、仁和寺御室が他寺他流を排して独占的に修すべき大法である孔雀経法以下、仁王経法、請雨経法の二箇の大法、普賢延命、如法尊勝、五大虚空蔵、如法愛染の秘法などの次第書が伝えられている。後七日御修法関係の次第や先例などを編纂した『御質抄』の鎌倉時代前期の写本も残されている。
「差図」箱には、仁和寺をはじめとして、清凉殿、栂尾石水院などの差図が収められている。特に「常瑜伽院指図」は、室町時代に御室御所であった常瑜伽院を描いた差図で、建物名や部屋名などを多く記し、当時の院家建築の様子が知られるとともに、御室御所内をうかがうことができる最古の図として貴重である。
「雑」箱に収められている「円堂鬼図」は右側に円堂点の点図、左側に円堂鬼を記している。円堂点は一〇世紀末に出現し、仁和寺などを中心に広沢流に広まり、鎌倉時代まで盛んに使用された第五群点に属するヲコト点である。一種類だけの点図を記した鎌倉時代に遡る遺品として貴重である。
このほか、紙背文書にも注目すべき内容のものがみえる。
黒塗手箱聖教は鎌倉時代から室町時代を中心にして、歴代門跡の伝法灌頂および孔雀経法などの真言密教の修法に関する記録や法会差図が収められており、仁和寺において特別な扱いを受けるべき内容を有するものである。このように、黒塗手箱聖教は仁和寺の御室としての歴史とその法流である御流を伝える根本聖教であるとともに、真言密教を代表する聖教である。