本羽織のような大柄の葵葉を散らした類品には、桃山時代末期に徳川家康(一五四二~一六一六)より新井源左衛門威忠が拝領したとされる「水浅葱練緯地蔦模様三葉葵紋付辻が花染胴服」(東京国立博物館蔵)が知られ、葵の配置、露の置き方、縫い締め絞りの技法、配色の共通性などに類似点が認められる。
また、京都の呉服商雁金屋が注文を控えた慶長七年(一六〇二)の『御染地之帳【おんそめじのちょう】』に、徳川家康の注文分として「御地むらさきにあふひを一は二はつゝちらしてあふひの中あさきひわしろに一はつゝかへてきせわけにあふひ大らかに」(御地紫に葵を一葉二葉ずつ散らして、葵の中浅葱、鶸、白に一葉ずつ変えて着せ分けに葵大らかに)との記載があり、本羽織と同様の辻が花染が雁金屋で作られていたことが知られる。
本羽織と小袖は、ともに尾張徳川家四代吉道(円覚院)(一六八九~一七一三)着用の遺品であるが、文様や仕立て寸法、辻が花染の技法などから、もとは徳川家康の遺品と考えられ、駿府御分物のうち家康着用の「御めし領」とは別に尾張徳川家初代義直(一六〇〇~五〇)に分与され、尾張徳川家に伝わったものと考えられる。
本品は遺例が少ない徳川家康に関わる完成期の辻が花染の作品であり、表裏地とも後補が見られず、当初の姿をよく伝えた保存状態がきわめて良好な辻が花染の貴重な遺例である。