目黒山形関係資料は、伊予国(愛媛県)吉田藩目黒村と宇和島藩二郎丸村の山境争論の幕府裁許の過程で、寛文五年(一六六五)に製作された山形模型と関連する一括資料である。
目黒村とその北の二郎丸村の山境争論は、明暦四年(一六五八)春におこり両藩の対立となって、寛文四年三月六日、目黒村庄屋長左衛門は江戸へ出て幕府に訴えた。同年八月、幕府は絵図、山形を作ることを命じ、翌寛文五年八月には山形が完成して江戸にもたらされ、十月十二日幕府から裁許が申し渡された。
目黒山形は、争いの地域を立体的にあらわした木製の模型で、六個に分割できる。各部分を一材から標高にあわせて彫りこみ、裏は内刳りを施している。表面は、胡粉を塗り、山は緑、耕作地などは黄土色に彩色し、樹木や人家を描く。道は朱線、河川は黒線であらわし、谷や尾根には胡粉で地名などを書込み、貼紙もわずかに残る。
平面の縮尺は、約五九〇〇分の一で、高さは東西の海抜の差二三〇メートルをほぼ同一平面としていることからやや精度を欠くが、尾根筋からの比高はかなり正確で地勢はよく把握されている。
敷絵図は、山形の下に敷いて周辺の地理を示す絵図で、山形と敷絵図が一体として現存する例はほかになく、この模型の特徴である。
裁許絵図は、寛文五年十月十二日に幕府の評定所において両村の境界を新たに定め、絵図に墨線を引いて寺社奉行井上正利らが捺印し、裏に判決文である裁許絵図裏書を記して目黒村に与えた絵図である。
文書・記録類は、正保四年(一六四七)以来の林政にかかわる文書、明暦四年からの山境争論の経緯を示した文書、寛文五年幕府裁許にかかわる文書、山形製作に関係する文書、裁許以後の山形及び関係文書の保管にかかわる文書などからなり、絵図製作にあたって花押・血判をした血判起請文、実地に測量をした測量帳三八冊、縮尺換算した分縮帳三六冊などが含まれる。これらの文書は、幕府裁許を後世へ伝える証拠資料として使用され、かつ保管管理されてきた過程を物語っている。
江戸時代前期の立体地形模型は、西日本を中心に数例が確認されているが、本資料はこれらのなかで、模型自体の精度が高く、争論、製作、保管管理に関する文書記録類が一括して伝えられている点で、類例稀な資料である。具体例に乏しく、未解明な点が多い近世前期の測量技術をうかがう上で貴重な学術資料であり、地理学・測量技術史上、法制史上特筆される資料である。