高宮廃寺跡 たかみやはいじあと

史跡 社寺跡又は旧境内

  • 大阪府
  • 寝屋川市高宮
  • 指定年月日:19800513
    管理団体名:寝屋川市(昭56・5・27)
  • 史跡名勝天然記念物

S55-05-023高宮廃寺跡.txt: 高宮廃寺は、生駒山系から南西に延びる香里丘陵の南端に位置する。現在この地に鎮座する延喜式内社[[高宮大杜御祖]たかみやおおもりみおや]神社の境内と叢林の中に古代の寺跡のあることは、拝殿と本殿の間に残る西塔の礎石、その東方に残る東塔跡の基壇と心礎、これらの北方に残る金堂跡とみられる土壇の存在によって、古くから知られていた。また昭和28年には、大阪府教育委員会によって、東塔跡の確認調査が行われて、一辺1.03メートルの規模をもつ塔基壇が確認され、出土の屋瓦から、この廃寺の創立年代が7世紀後半にさかのぼることが明らかにされている。その後、昭和54年末になって、社地の北側に接する部分に宅地造成の計画が起きたことから、この寺跡の保存のために、寺域全体の範囲確認調査が実施されることとなった。
 現在までの調査で、金堂・講堂・中門・南門と、東面回廊と西面築地の一部が確認されている。金堂基壇は東西13メートル、南北11.5メートルで、赤褐色の山土を版築してつくられており、現存高60センチ。削平のため、礎石は残存していない。金堂基壇の北方30メートルの位置で検出された講堂跡は、竹林の土の入替えのために、かなりの削平を受けているが、基壇の版築土の残りとその周辺に拡がる焼土の存在から、東西16メートル、南北12メートルの基壇規模をもつものと判断された。中門と南門については、基壇の一部を検出した段階であり、全体規模については今後の調査をまたねばならない。主要伽藍を囲む回廊と築地についても現在調査中であるが、東塔基壇の東方12メートルの位置で版築による東面回廊の基壇の一部と、講堂基壇の西方45メートルの位置で、同じく版築による西面築地の基壇の一部を検出している。地覆石抜取り痕跡からみると、西面築地はこの地点で東に折れ、講堂方向に走るが、講堂西面においては築地跡は検出されておらず、講堂の西方で再度北に折れて北方へ延びるものと推定される。金堂・東面回廊・西面築地跡から、飛鳥時代の素弁八葉蓮華文軒丸瓦と奈良時代の軒瓦が、また中門跡からは奈良時代の瓦が集中して出土している。講堂跡からは鎌倉〜室町時代の瓦が集中して出土し、焼土を伴うことから、この時期に再興後、まもなく焼失したことがうかがえる。
 当廃寺は、残存する堂塔基壇の配置から、中門・講堂を結ぶ回廊内部に、金堂と東西両塔を配置する薬師寺式伽藍配置をとるものと推定されてきたが、現在までの調査では、北面回廊の位置が未確認のため、全体の伽藍配置を決定するに至っていない。北面回廊が、今回検出された金堂と講堂の間を通るとすれば、薬師寺式とはやや異なる伽藍配置をもつことになるが、今回検出された講堂の南方に創建時の講堂がある可能性もあって、問題を今後に残している。なお、今回の調査では、廃寺主要部の各所から飛鳥時代にさかのぼる屋瓦が検出されており、確認された主要伽藍の配置や、東塔跡出土の複弁八葉軒丸瓦から推定される7世紀後半以前に、この寺院が創建され、その後順次伽藍の整備されたことが明らかになった。現在、当廃寺の西側に叢林があって、御祖神社の旧地と伝え、西方高宮集落の中には式内社高宮神社があって、その境内に西塔の心礎が置かれている。この両社は旧事本記にみえる高宮神主がその祖神を祀ったものであり、当廃寺はこの2社と氏社・氏寺の関係にあるものと考えられている。7世紀に河内高宮氏によって建立された当廃寺は、古代北河内地方における初期寺院の展開と、氏寺経営のあり方をうかがうことのできる遺跡として、貴重なものである。

高宮廃寺跡

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