三宝院殿堂 一棟
三宝院は勝覚の開いた醍醐寺の院室で、中世以降は寺の座主職を兼ねていた。建築はたびたびの火災にあい、ことに文明二年(一四七〇)以後は再建が滞ったが、慶長三年(一五九八)に豊臣秀吉が花見のためこの寺に来て、みずから指図を行って再興した。現在みられる諸建物の多くはこの時のものといわれている。
表書院は三宝院殿堂の中央部に南面して建っている。規模の大きな建築で、正面は庭園に面して広縁を設け、向かって左端には突出した切妻造の泉殿を備え、また西面には車寄せ唐破風を付けている。これらは当代書院造の一般的手法であるが、また古く寝殿造以来の伝統でもある。内部は二間の床と一間の違棚を設けた上段十五畳及び十八畳、二十七畳の三室からなり、そこに描かれた障壁画も著名である。構造は、面取法柱、舟肘木、疎垂木、小舞裏の軒で、舞良戸を多く用い、いずれも手法が簡素である。桃山時代書院造の特質を最もよく表した遺構として住宅史上価値がきわめて高い。
【引用文献】
『国宝辞典(四)』(便利堂 二〇一九年)