現在、本寺五重塔内の須弥壇の四方に安置される四天王像である。持国天は左手を腰に当て、右手を振り上げて三鈷を執り、増長天は左手を挙げて戟を突き、右手を腰に当て、この両者は動的な表現をしている。一方、広目天と多聞天は臂を曲げて後方に引き、持物を執る静的な動勢をとっている。また肉身を持国天が緑、増長天が赤、広目天が白、多聞天が青(現状後補)にそれぞれ彩色する。こうした四天王像の組合せは、鎌倉時代再建の東大寺大仏殿四天王像の形式を襲ったものとみられ、鎌倉初頭に快慶によって造られた和歌山・金剛峯寺像(重文)を代表的遺品とするこの種のいわゆる大仏殿様四天王像と形式や身色に至るまで忠実に共通している。
各像ともヒノキ材の竪一材から頭躰幹部を前後矧ぎにして、割首、割足して内刳りを施している。また表面は、天冠台や腰甲、甲の縁などに漆箔を施すほかは白地彩色とし、朱の輪郭で括った繧繝による花文を多用した植物文によりほとんどすべての文様が構成されている。こうした繧繝による花文の趣向は建暦二年(一二一二)の造立とされる浄瑠璃寺吉祥天像(重文)に相通じ、大柄で力強い文様表現には天平風の古様さが感じられ、鎌倉期の慶派仏師の諸作品にみられる彩色文様の傾向がうかがえる。
四躰いずれも動勢の把握が的確で、躰部の動態表現に応じて着衣や袖、裳裾まで写実的に表現されている。また、小像ながら入念かつ深く鋭い彫り口がなされ、鎌倉初期とされる興福寺旧西金堂所在の金剛力士像(国宝)のように緊張感にみなぎっており、同じ大仏殿様四天王像のなかでも最も佳作とされている快慶作の銘のある金剛峯寺像に匹敵する造形を示す。
本一具像についての伝来は詳らかにできないが、建保二年(一二一四)ころに建立された五重塔内安置の四天王像という見解も提唱されている。塔にともなって製作されたかは直ちには決めがたいものの、作風や文様等のうえから本一具像をこのころの造像とみて大過なかろう。本躰の彩色や、別製の光背や冠繒、あるいは足下の邪鬼なども当初のものがよく残るなど保存状態は良好で、大仏殿様四天王像のなかでも初期に位置する十三世紀初頭慶派の有力仏師の手になる優品として推奨される。