歴史資料/書跡・典籍/古文書 その他 / 鎌倉 南北朝 室町
京都府京都府綾部市の安国寺に伝来した文書ならびに境内図である。安国寺は暦応元年(一三三八)、足利尊氏、直義兄弟が夢窓疎石のすすめで諸国に設置させたもので、丹波の安国寺はその前身が尊氏、直義の母方上杉氏の氏寺光福寺であったことから、足利歴代将軍の崇敬が厚く、文保元年(一三一七)八月廿七日比丘尼心会譲状を上限として南北朝時代を中心に室町時代に至る文書七十四通を存している。
文書中には、建貮二年(一三三五)三月一日に足利尊氏が北条高時等の冥福を祈って日向国国富庄石崎郷地頭職を寄進した文書をはじめ、武士の押領等に対する室町将軍御教書など安国寺の寺領の変遷が知られる武家文書がまとまっているほか、同寺を京都十刹にすることを命じた応永廿一年(一四一四)十一月十八日足利義持御判御教書のように安国寺の寺格を示す文書もみえる。また、康永元年(一三四三)八月十三日の上杉清子置文は、南北朝時代の代表的な女性文書として著名であり、康永四年(一三四五)十月廿一日天菴妙受遺偈は、康永元年に尊氏に招かれて安国寺開山となり、同四年十月二十七日、七十九歳にて示寂した妙受の絶筆で、開山遺偈として注目される。
安国寺境内図は、南北朝時代に作成された絵図で、山を背景にして中央に安国寺の伽藍を配置し、右側に宝篋印塔三基と、開山の塔所正〓庵などの堂宇三棟、左側に堂宇一棟が描かれており、「東限他尾東」等の墨書注記がある。また、正〓庵の位置する右側の山端とその麓の部分を囲むように妙受の花押十顆が捺されているのは、とくに妙受所縁の地として結界したものと考えられる。
これらの文書ならびに境内図は、足利氏と関りの深い安国寺の歴史とその規模を具体的に伝えた史料として中世史研究上に価値が高い。