幕末の開港後、英国からの良質で安価な綿糸(中国綿、後にインド綿)の輸入の増大に伴って、輸入機械による工場建設が始まった。その嚆矢は薩摩藩による鹿児島紡績所(慶応3年<1867>)で、明治維新後も政府の奨励策によって明治18年(1885)までに20か所ほどの小紡績所が開業した。しかし大部分は未熟な技術や設備投資等によって経営不振であった。その間、明治15年(1882)に渋沢栄一の主唱により、華族・政商・綿関係商を株主に大阪紡績会社が設立され、翌年7月、ミュール精紡機16台・10,500錘を輸入・設置し、大規模生産・蒸気原動力と昼夜二交代制によって高配当を行い成功した。
一方、本機の伝来した三重紡績所は大阪紡績会社と同じ明治15年に三重県三重郡川島村に伊藤伝七によって開業されたが、当初は困難な経営を強いられた。しかし同19年(1886)に渋沢の援助をうけ株式会社として再出発し、同21年には四日市町に新工場を建設した。このとき渋沢は大阪紡績会社の成功を範とするように指導し、英国での視察・研修を終えた技師斎藤恒三の決断によって最新式のリング機10台・3440錘を英国のプラット社から輸入した。その後、三重紡績は大阪紡績とともにわが国を代表する紡績会社へと成長し、大正3年(1914)、両社は合併し、東洋紡績が誕生した。
本機は、三重紡績が四日市工場を拡充しつつあった1893年4月にプラット社が発注を受けていたことが同社の「外国向け機械受注及び出荷簿」によって判明し、このことは本機の銘板によっても確認される。リング精紡機とは、紡績工程のうち前工程(開綿・打綿・梳綿・練条・粗綿)で作った粗糸から所要の糸を紡出する紡績の最終工程に使用される紡績機械のことであり、糸の品質を決める最も重要なものである。プラット社製のリング精紡機は、当時世界の精紡機中、最も優秀なもので、後の豊田自動織機の範となった。本機は三重紡績に輸入されてから、まさに紡績産業の歩みとともに永年にわたって稼働し、製造年次および伝来の経緯が明らかな最古の機械として綿糸の生産を続けた。そして昭和43年(1968)に博物館明治村に寄贈され、今日に至っている。
長期にわたって使用されてきたため、可動部分には修理・交換等が行われているが、明治・大正・昭和の三代にわたって稼働し、伝来経緯の明らかな紡績機械の一つとしてわが国近代の産業技術発達史上等に貴重である。