木造兜跋毘沙門天立像 もくぞうとばつびしゃもんてんりゅぞう

彫刻 / 鎌倉

  • 鎌倉
  • 1躯
  • 重文指定年月日:20050609
    国宝指定年月日:
    登録年月日:
  • 青蓮院
  • 国宝・重要文化財(美術品)

 兜跋毘沙門天像の一例であるが、ほとんどの遺品が平安時代に集中しているなか本像は鎌倉時代造立の珍しい作例である。兜跋毘沙門天のわが国での根本像である東寺像(国宝)に比べると、後補に替わっている宝冠を除いて、歯を出さず閉じた口、高く挙げられた右手、腰帯に挿まれた天衣が大きな相違点で、そのほかに装身具などに多少の違いがある。そのうち特に右手を挙げるのは、当初は天衣を右肩に掛けていたと復元される表現に対応する動勢と推定される。他に若干の小異はあるものの、それら以外は細部まできわめて忠実に倣っている。東寺像において練物が使われている耳〓、頸下の花飾、胸甲中央から腰に至るX字状の瓔珞と中央の花飾等の部位が、本像においては銅製鍍金となり、その他花飾などに金具の使用が多いので、東寺像を模すにあたって練物の部位とその他の装身具を金具で表現したことがうかがえる。
 やや面長でしもぶくれ気味の面相は、静岡・願成就院と神奈川・浄楽寺の運慶作両毘沙門天像(重文)に見られるのが早い例で、以後慶派仏師に受け継がれた毘沙門天像の造形的特徴である。東寺像よりも頭部の大きいプロポーションで安定感のある整った体型ながら、獅噛や二鬼神の立体的で力強い表現は、鎌倉時代初めの慶派仏師作であることをものがたる。
 本体の裾内側で上下を割矧ぐ技法(割り裾)は平安時代後期から現れ始めるもので、本像では割り首とともに、彫刻の便と傾きの調整が図られているが、そのほかに、像内納入もまた目的の一つだったことが推測しうる。
 本像は青蓮院大日堂に伝来し今は本堂(熾盛光【しじょうこう】堂)安置だが、本来の安置堂宇については伝えられていない。青蓮院は慈円(慈鎮)により復興されて間もなく、最勝四天王院の建立に伴い吉水【よしみず】へ移転し、そこに熾盛光堂(建永元年〈一二〇六〉供養)および大懺法院(承元二年〈一二〇八〉供養)が設けられた。両堂とも本尊の周りに毘沙門天像が祀られていたことが文献から知られるので、本像はいずれかの堂宇にあったと推定される。吉水の房は建保四年(一二一六)と承久二年(一二二〇)に火災に遭い、貞応元年(一二二二)に三条白川に戻るが、鎌倉時代初めとみられる本像の作風から、吉水移建時の建永度または承元度の造立の可能性が高い。白河坊はのち十楽院に移されたが、安置の仏像も移座されたと推定され、現在に及んでいる。
 青蓮院旧蔵と考えられている米国・バークコレクションの不動明王坐像は、醍醐寺の快慶作不動明王坐像(建仁三年〈一二〇三〉、重文)と図像的に一致し作風も近いので、同じころ、快慶周辺の仏師の製作が推定されている。バーク像が本兜跋毘沙門天像と一具だったかどうかはともかく、同時期、同系統の仏師作とみなして誤りないだろう。吉水に坊があったころ、青蓮院の造像に快慶が登用されたことが文献上わかっているが、本像はそれと同じ環境での慶派仏師による造立と考えられるだけでなく、京都におけるこの期の造像をうかがわせる貴重な実作例でもある。

木造兜跋毘沙門天立像

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