近年、足柄に銘文が発見され、作者の名が明らかになった三尺の来迎阿弥陀如来像である。
作者行快は、鎌倉初期の名匠、仏師快慶の高弟で、建治四年(一二一六)におそらく法橋となり、承久元~二年(一二一九~二〇)の長谷寺十一面観音像の復興では、快慶を補佐して働き、安貞元年(一二二七)までに完成した京都・大報恩寺本堂諸像の造立では、中尊釈迦如来像(重文)を担当し、この頃、名実ともに、快慶につぐ立場にあった仏師である。その後も、建長期に復興された蓮華王院千体千手観音像のうち、第四九〇号像に銘を残し、快慶の没後も、しばらくの間、活躍している。
均整のとれた写実的な作風や、割矧造りの構造には、師である快慶のそれをよく学んだあとがうかがえる。なおX線写真で認められる、像内背部につり下げられた経巻状のものの納入状態も、快慶作の大阪・八葉蓮華寺阿弥陀如来像(重文)のそれによく似ている。しかし、深い彫り口で表わされた抑揚のある表情や、動きのある衣文、全体にやや角ばった奥行のある躰つきなどには、快慶作品とは異なる、独特の力強い表現があり、快慶に学んだ十三世紀前半の作品中、特に優れた出来ばえを示している。その製作時は、大報恩寺像との細部にわたる共通点から、ほぼそれと同じ頃かと考えられる。
菅浦は、菅浦文書の存在で有名な集落だが、本像の造立についての記録はない。ただ、菅浦は十二世紀末には比叡山領であることが知られ、現在、時宗である阿弥陀寺は、十四世紀以前には天台宗だったとの伝えがあるから、本像が当初からこの地に祀られていたことも十分に想像される。