岐阜県岐阜市内の円徳寺に伝来した織豊時代の制札四枚で、うち二枚は織田信長、他は池田元助・輝政の発給になり、共に楽市令に関する制札史料として著名なものである。
体裁はおのおの檜・松の柾目材を用い、槍鉋、鑿にて上辺を山形に型取り、表面を砥の粉状のもので滑らかにして本文を墨書している。
このうち(一)永禄十年(一五六七)織田信長制札は、信長による稲葉山城攻略の直後に出されたもので、檜材二枚を継ぎ合わせた形をとるが、本来は一枚板で、製作工程での割れを継いだものと認められる。背面には杭に取り付けられた痕跡と釘穴跡があるほか、天部には笠屋根を取り付けた跡がみえ、木痩せ汚れ等からみて、屋外にある期間掲示されていたことがわかる。(二)永禄十一年九月日織田信長制札は信長による上洛軍結集に際して発給せられたもので、やや厚めの柾月檜材で笠屋根を取り付けた跡がある。(一)(二)とも下辺木口に製作者とみられる「弥四良」の陰刻銘があって注目される。(三)天正十一年(一五八三)六月日池田元助制札は、賤ケ岳合戦後、美濃を領した池田恒興の長男で織田信孝に替わって岐阜に入った池田元助が発したもので、柾目の姫小松を用材とする。(四)「天正拾貮」七月日池田輝政制札は、長久手の戦で討死した恒興の家督を継いだ輝政が新たに発給したもので、柾月の姫小松を用い(三)と同様製作時の割れがある。
これらの楽市令制札はいずれも三箇条からなるが、充所、条文の内容等については(一)と(二)以下にいくつかの相違点がみられる。これらの変化を楽市という社会的慣習として容認されたアジール的な場が戦国大名権力によって否定されていく過程とみるか、あるいは発給主体たる上級権力者信長と池田氏との相違や制札を受け取る主体側の状況の変化としてみるかについては説がわかれるが、いずれにしても、この制札は戦国大名権力によって行われた城下町形成における楽市令の実態を考える上に不可欠の史料である。